和泉式部 今はただ | わたる風よりにほふマルボロ

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美しい和歌に触れていただきたく。

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『源氏物語』を使った心理学講座。

次回講座は12月22日

弘徽殿女御の人生を題材にします。

その後のスケジュールはこちらです。

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敦道親王におくれて詠み侍りける

 

今はただそよその事と思ひ出でて忘るばかりの憂きふしもがな

和泉式部
後拾遺和歌集哀傷573



【口語訳】

いまは、

ただちょっとした事でもいいから、

そうだ、そんな事があったわ、

そんなひどい事を

なさった方だもの、もう嫌い、

と思い出せるような

つらく悲しい思い出のひとつでも

あったならなあと思う。

振り切って忘れてしまえるほどの

嫌な思い出があったらなあ。

そんなものがあったならば、

私を置いて亡くなった宮様のことも

忘れて、この苦しみから

解放されるかもしれないのに、

嫌なところも意地悪なところも

ひとつもなかったあの方だから。

(訳:梶間和歌)


【本歌、参考歌、本説、語釈】

 

そよ:ああ、そうそう。

 ふと思い出したり

 相槌を打ったりする感動詞。

 

忘るばかりの:忘れるほどの。

 終止形に「ばかり」が接続すると

 程度や範囲を表す。

 連体形に接続した場合は

 「のみ」などの限定の意味になる。

 

憂きふしもがな:

 つらく悲しい事があったらなあ。

 

 

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『和泉式部続集』では、結句

「憂きふしもなし」となっています。

 

 

ある時はありのすさびに憎かりきなくてぞ人の恋しかりける

 

帥宮挽歌群、

和泉式部の哀傷歌ですから、

 

この古歌の発想に支えられて

詠まれた、というよりは

 

彼女の実感に端を発した

哀傷歌かなと思いますが、

 

和泉式部の当然の知識として

潜在意識下に

この歌の知識と発想は

あったと思います。

 

 

憂き節がなかったはずは

ないのですよ。

 

『和泉式部日記』を読んでも、

思うに任せないすれ違いや誤解は

いくつもあったようですし、

北の方を追い出して

召人(めしうど)として

宮邸入りしたことへの批判は

相当あったようですし。

 

「どうしてこうなのか」

「どうしてもっとこうしてくれないの」

という気持ちがなかったということは

ないでしょう。

恋愛は人と人の営みですから。

 

 

それでも、死は偉大で、死者は強い。

 

『源氏物語』でもそうですよ、

亡くなった夕顔や葵上や藤壺を

光源氏はいつも美化して

思い出していましたよね。

 

なくてぞ人の恋しかりける

忘るばかりの憂きふしもがな

 

なのですよ。

 

現代でもそうじゃないですか。

「生前あんなに悪く言っていた人を……」

ということ、ありますよね、

観察者としても、

自分自身のこととしても。

 

少し前に祖父を見送った祖母など

そんな具合ですよ。

 

 

千年昔の女性と現代の人間と、

時空を超えて共感できる点の

ひとつじゃないかしら。

 

 

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