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リーディング短歌書き下ろし
『源氏物語』を使った心理学講座。
藤壺の人生を観察する第6回講座は
10月22日、27日に開催します。
その後のスケジュールはこちらです。
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西行法師すすめて、百首よませ侍りけるに
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ
藤原定家
新古今和歌集秋上363
【現代語訳】
あたりを見渡すと、
ここには桜も紅葉も
華やいだものは何もない。
漁師の住む粗末な小屋のみ
立っている
この浦の秋の夕暮れ。
花も紅葉もない、秋の夕暮れ。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
いとさしも聞えぬもののねだに、をりからこそはまさるものなるを、はるばるともののとどこほりなきうみづらなるに、なかなか春秋の花紅葉のさかりなるよりは、ただそこはかとなうしげれるかげどもなまめかしきに、くひなのうちたたきたるは、「たが門さして」とあはれにおぼゆ。
『源氏物語』「明石」巻
はるの花あきの紅葉のちるも見よ色はむなしき物にぞありける
藤原俊成
なかりけり:
ないのだった。ないのだなあ。
「けり」は気づきを伴う
過去の助動詞で、
詠嘆を表すことが多い。
『新古今和歌集』で
「三夕(さんせき)の歌」として
知られる歌のひとつ。
ほかの2首は
さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮
寂蓮法師 新古今和歌集秋上361
心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮
西行法師 新古今和歌集秋上362
「二見浦百首」中の
一首なので、
定家25歳の折の作です。
百首歌としては
何作目になるのかしら。
『拾遺愚草』のなかでは
「二見浦百首」は冒頭から2つ目に
置かれていますが、確か
最初の百首歌とこれのあいだに
別の百首歌を詠んでいたはず。
いずれにしても
早いうちの作でしょう。
この早熟ぶりよ、まったく。
ちなみに、二十歳で詠んだ
最初の百首歌には
めぼしい歌が少なく。
私に見る目がないのかなと
判断を留保していたら
塚本邦雄も
同じように言っていました。笑
勅撰集に「秋の夕暮れ」の歌が
入集するようになったのは、
思いのほか遅いようです。
応徳三年(1086年)撰進の
『後拾遺和歌集』が
勅撰集での初見とのこと。
そのうちの早いものは
900年代後半に詠まれたそうです。
「秋の夕暮れ」が
大昔からの伝統ではなく、
定家の新古今時代から見れば
二百数十年前ごろから
詠まれるようになった
歌題だったとは、意外です。
斎藤茂吉の
「花も紅葉も」批判に対する
塚本邦雄の批判も興味深く、
インスタグラムやフェイスブックで
紹介したのですが。
こちらにも引用しておきますね。
太字、下線などは
恣意によるものです。
「花・紅葉」とさえ言わなかったら、全く空白の世界であるのに「花も紅葉もなかりけり」。
「ない」と言ったから「ある」と強調されたよりもはるかに強烈に、花と紅葉のイメージが私たちの心のなかに浮かんでくる。
それがこの歌の一番の特徴であり、一番の命です。
(略)
「なかりけり」という恐るべき打消し、この打消しが、肯定よりもはるかに強いということです。
これも私の持論の一つですが、10の自乗の百は決して怖くない、マイナス10の自乗の百が怖い。負数から生まれた正数は、本当の迫力のあるプラスの正数ではないだろうか。
それを持っている「花も紅葉もなかりけり」の、その底力が、すなわち魔王の力です。
短歌という詩型は、プラスの詩型ではありません。
もう忘れられた詩型です。
前世紀の遺物です、ところがそれを現代に生かそうとなれば、負の力がなければ、絶対にだめです。短歌が今日の最高の文芸であり、最高の詩の形式であれば、プラス、プラスと言っていればいいんでしょうが、短歌はそういう形式ではありません。
俳句よりもさらにマイナーなイメージのある詩型です。
しかも、三十一音という檻のなかで羽ばたかねばならないという、超現実的な詩型です。
(略)
空想否定論など信じているはずがないんです、斎藤茂吉という人は。
『赤光』の中の傑作に
「神無月空の果てよりきたるとき眼ひらく花はあはれなるかも」
があります。どこが写実です? この歌が。
最高です、この歌は。
(略)
どうしてこういう歌をつくりながら、一方でああいうこと言わなければならないか。
これは、「アララギ」という結社の宿命なんです。
斎藤茂吉先生はそれで済むかもしれないけれども、それをみんなが真似し出したら「アララギ」はがたがたになってしまうと、みんなほかの人が言いたいんでしょうね。
(略)
幻想的な歌をつくったら、芝居気たっぷりだと言われたのに腹が立った。
その本人がどうして「花も紅葉も……」をけなさなければならないか。
私は真のリアリズムとは、「あり得ることを現実にあるよりもさらに迫真的に表現するもの」だと思っています。これ以外にリアリズムはありません。
現実に経験し終わったことを直叙するのが決してリアリズムではないと思います。
そんなことにわざわざリアリズムという主義の名前をつけること自体が、リアリズムに対する冒瀆です。
塚本邦雄 『新古今集新論』
176~179頁
新古今集新論―二十一世紀に生きる詩歌 (岩波セミナーブックス (57))
5,903円
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また、こちらは
2016年ごろ読んだ図書の引用。
ページ数までは覚えていません、
すみません。
中世的な美意識を代表する歌としても
捉えられることが多い。
(略)
全く最初から何も華やかな物のない風景を考えるのではなく、一度詠まれた花や紅葉の華麗な印象は打ち消されながらも残るという、残像効果を前提とした美の複雑な在り方を考えるのが普通である。
それこそが中世的美の本質であり、それをいち早く表現し得た作品がこれであり、
村尾誠一 『藤原定家』
藤原定家 (コレクション日本歌人選)
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またこちらは、昔聞いた話なので
出典などは不明です。
否定によって強い肯定をする
という技法は、
日本以外の文化を持つ人には
「あれもないこれもない。
何も言っていないじゃないか、
この詩は」
という受け取られ方を
しかねないそうです。
すごい受け取り方だな。
「何も言っていない」だなんて
それが事実だとしたら
とんでもない評だ、
日本人の感覚では考えられない
情緒に欠けた
詩歌の味わい方だ、
と思ってしまうのですが、
この説自体が極端なのか?
本当なのか??
海外のことには明るくないので
私には何とも言えません。
ただただ、少なくとも、
私は日本人でよかった、
と胸を撫で下ろすばかりです。
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ