12歳
身長135cmで中学校に入学。
もちろん先頭。
野球部に迷わず入部。
初恋の子は転校してしまう。というか転校するのが分かっていて告白した。(←っつかこれ同級生とかに見られたら恥ずかしいね)
エレクトーンのアンサンブルを組む。そこでドラムを担当する。のちにそのメンバーの1人が2016年に全日本作曲コンクールという大会で1位に選ばれる。嬉しい!けど悔しいね。(←今の気持ち)
野球部では対戦相手のチームとおもや乱闘騒ぎになる。キッカケは僕の悪ふざけ。お灸を据えられる。
13歳
先輩のバンドに誘われ、お年玉で「バンドやろうぜ」という当時流行っていた音楽雑誌の楽器が載ってるページにあったYAMAHAのドラムを購入。
ドラムが届いて組み終わった時に転校した彼女から電話で「別れよう」と告げられる。
この瞬間から音楽しかないと思いバンドに打ち込む。
14歳
父さんが昔使っていたアコースティックギターを倉庫で発見し、ギターを弾き始める。
最初に覚えたのはGLAYのBELOVED。サスケ。隣の家に住んでいた弟みたいなやつ(のちに湯別メインストリートという二人組フォークデュオを結成)と一緒に歌ったり色々遊ぶ。
先輩の影響で作曲とかもしだす。
友達が書いてきた歌詞に作曲して歌った音源をSONYのオーディションに出す。
一次審査が通り2時審査の面接オーディションで落ちる。緊張してた自分&レベルの差に凹む。
母の影響で聴いていた松山千春のモノマネを完璧に習得したく、まずはモノマネしてる人のモノマネを研究しだす。(今千春さん)
そして学祭で披露する。先生方大爆笑。
初めて海外(アメリカ)にいく。そこで…
15歳
エスカレーター式かのように地元の高校に入学。
バンドは同級生と組む。
大人のバンドの人達とも仲良くなり、色んなアマチュアの人達のライブに連れて行ってもらう。そこで時には歌わせてもらったり。
幼稚園からずっと一緒だった幼馴染で、バンドも一緒にやっていたやつが失踪する。
16歳
隣の家の弟みたいな相方と湯別メインストリートという二人組フォークデュオを結成。
高校では進路相談や面接練習をみんながやらされる中、断固として「ミュージシャンになる!」と言い続け先生を困らせる。
YAMAHAの音楽大会に出場し、当時のオリジナル曲「この道あなたと…」か「ありがとう」(記憶曖昧)を歌って地区大会で優勝する。YAMAHAの方々に声をかけられる。
(その時北海道代表で優勝したのが福原みほちゃんというのちにメジャーデビューした子)
そのだいぶ前にテレビ朝日ミュージックという会社のオーディションにも応募していた。幸運にも声をかけて頂ける。当時放送されていたストリートファイターズという音楽番組の取材が
くる。驚く。喜ぶ。TVというものに初めて出る。
まだ子供でよくわからないながら、YAMAHAかテレビ朝日ミュージックかという選択に迫られる。
当時サスケ、ケツメイシ、湘南乃風、とくにHYが好きでファンクラブに入っていて憧れだったのもあり、HYの所属していたテレビ朝日ミュージックに入る事を決めた。
17歳
TV番組に毎週出たり、土日は毎週東京に出てくるようになる。
作曲、ギターレッスン、ボイストレーニング、ダンス、スポーツジムを習わさせて頂く。
疲れ果てて月曜日の朝の授業はほぼ保健室で寝ていた。
見た事のない人口100人の地元からは想像できない大都会の東京に胸を躍らせた。
毎日が楽しくて楽しくて、そんな記憶。
18歳
卒業後はほぼ東京に滞在。
だが相方が2つ下でまだ学生という事もあり、今度は毎週末北海道に帰ってくるという流れに。
毎週末ストリートライブを札幌の狸小路3丁目辺りで開催。最初は足を止めてくれる人はいない。
19歳
真冬のマイナス10℃を超える寒さの中、コードを押さえる指の感覚も無い中、毎週末は決まった時間に決まった場所でストリートライブをやり続ける。500枚限定で作った手作りCDも全て無くなる。やり続けた結果、300~400人の人が見に来てくれるようになる。
(1回2回、、100回ダメでも、続ける事は大切な事だと現在身に染みてわかる。)
主に北海道のTV番組に出演、そしてアルバムを引っさげて全国のラジオ、CDショップ、TV局を周るようになる。
20歳
湯別メインストリートの解散。
事務所をやめる。
ここから札幌に住む。
人生でほぼ初めてのアルバイトのとんかつ屋さんは1ヶ月たらずでやめる。
あーまだ音楽やりたいとフツフツ滾る。
2回目のアルバイト先(工事現場警備員)の社長が小室哲哉さんと音楽をやっていた方で、「東京にまた行ける日が来るまでめんどうを見てやる」と言ってくれ、一生懸命働く。
警備員は指名制があるらしく、数ヶ月で指名が1番になり現場の頭をやらされるようになる。お父さん世代の方が多い仕事なので、とてもやりづらい。
なんだかんだ警備員という仕事に重きが置かれていて焦る。
そんな最中、「じゃ~んずΩ」というグループの「三浦タカ」という男にピアノをサポートで弾いてくれないか?と頼まれ、受ける。
それがキッカケでまた本格的に音楽活動を再開する。
再開する際に、
「越前谷直樹」
改め、
「若G」
に改名。
若Gの由来:地元の先輩(僕がオリジナル曲で弾き語りをするキッカケになった人)に新しい名前を相談した所、「若頭だったから若Gだ」という事になり、若Gになる。
三浦タカと全国TOURをした際に、東京で今のCrossover&Co.の相方「将星」と出会う。
将星が関わっていたT-INFINITYという事務所の社長さんが、僕に前の事務所で作曲のレッスンをして下さっていた方で、その繋がりで声をかけられ、将星の後ろでピアノを弾く事になる。
将星と一緒のステージ初ライブで歌ったカバー曲に対して、当時偉かった方に「お前らにそれ以上の名曲あるのか?」と言われ、久々に出て来た東京での初ライブでいきなり凹む。(しかし心の中は、「いつか見てろよコノヤロー」)
21歳
東京の家が無く、将星の家に居候。
将星と一緒に楽曲制作をしたりしていく中で明確にCOLLAGEN BOY'zというユニットを結成。
フォークデュオとして活動。
1番最初に30枚限定で作った手作りCDが、イベント即日で完売。久しぶりの感覚に喜ぶ。
22歳
将星の家にずっと居候するのも悪く、事務所に寝泊まりするようになる。
あの頃の将星への家賃まだ返せてないな。
あの当時は色んな人の家を転々としていた。その日に初めましての人の家とかも。
この時に深夜朝方まで事務所のスタジオで作業してるアレンジャーさんの作業とPCを見て、ひたすら作曲を勉強する。
衣類はコインランドリー、お風呂は普段は事務所の蛇口or近くの銭湯、ベッドは倉庫のソファで過ごす。
色んな絡み合いの中、王子様になる。←(この辺は設定などを話すとややこしくなるので割愛させて頂きますw)
COLLAGEN BOY'zとして初めての全国TOUR。
1st.ALBUM「おちゃメン♂王子」をリリースする。このアルバムには伝説のボイストラックも入っている。今聴いてもなかなかヤバイ。楽しい。笑
後編へ続く、、、