松島観光の続きです



次に行ったのは観瀾亭・松島博物館

伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した
伏見桃山城の茶室で
2代目藩主忠宗が松島に写したものです

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床の間の貼付絵や襖絵は重文。
襖開けて海風ガンガン浴びてるけど
大丈夫なんだろうか


松島は月見の名所で
歴代藩主や姫君がここで月見の会を
開催していたそうです


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観瀾亭から見る松島はこれまた絶景

夜も水面に月明かりが反射して
綺麗だろうなぁ





最後に
みちのく伊達政宗歴史館


200体以上の等身大蝋人形で
伊達政宗の一生を再現しています

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入り口はノリノリだったんですが


中はよーーーーく見ても
人間だか蝋人形だかわからないくらいの
精巧すぎる人形がズラリ


何人か本物の人間が混じってそうで
お化け屋敷より怖いです

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この間通る時本当に怖かった…
今にも動き出して斬られそう





自分用の覚書に
ざっと伊達政宗についてまとめると…


18歳で家督相続
(母が次男を後継者にと画策していた為
父が突如隠居して政宗を当主に据えた)

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近隣大名達との緊張が高まり
大内領の小手森城で800人を皆殺し
大内氏衰退


父の弔いに畠山氏の二本松城を包囲
畠山氏の援軍に佐竹氏らが加わり退却
(人取橋の戦い)


大崎氏の内紛に介入
離反などあり敗北するが母が間に入り和議
(大崎合戦)


乗じて蘆名氏・相馬氏が侵攻してくる
防衛成功(郡山合戦)


その後も蘆名氏との攻防
摺上原にて破る(摺上原の戦い)



この頃これらの戦いぶりに
伊達方に服属する諸大名が増え
全国屈指の領土となったそうです


有名どころの戦いだけでもこんなに…
まさに戦国の世ですよね

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一方豊臣秀吉とは
惣無事令(私戦禁止)も恭順すべしとの書状も
全てシカトしてきた政宗ですが

いよいよ豊臣服属を決め
遅れて小田原参戦


遅参に秀吉の怒りを買うも
謁見に死装束で現れ「死ぬ覚悟」を示し
72万石に減封される事で許されたそう

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家臣から「政宗逆心あり」と訴えられた時も
やはり死装束、金箔押しの磔を持って
京都に入ったんだとか…

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実際決死の覚悟だったのでしょうが
本当パフォーマンス上手ですね



秀吉が征明軍を組織した際は
京の人が目を見張る程の豪華な軍装で参じ

京都に「伊達男=派手・お洒落」
を定着させたそうです

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秀吉の死後は娘を徳川家康の息子に嫁がせ
縁戚関係となり

大阪冬の陣・夏の陣では
徳川方として参戦
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江戸時代になり世情が落ち着いてからは
領国の開発に尽力しました



仙台城・城下町の整備、
運河を整備し農業生産高を確保、
大崎八幡宮・瑞巌寺・塩釜神社などを再建。

今の仙台の発展は
これらの功績なんでしょうね





他にも色々あるけど
私が興味を唆られた所はこんな感じです

覚書が長くなりすぎたので
もう一回だけ続きます