「ナホトカ号重油流出事件のその後」…「舳倉島・七ツ島からの手紙」より
御茶ノ水のスケッチ会、アートバザール、今日もやっています。
やっと雨も上がってきたようでホッとしています。
さて今日は違う話題を。
輪島市の中道肇氏から、「舳倉島・七ツ島からの手紙」(2010年8月・北國新聞社発行)という本を送ってもらいました。B5判・オールカラーの本です。
「舳倉島・七ツ島自然環境調査団」編で、団長は、金沢大学・金沢学院大学名誉教授の藤則雄先生。
地質・気象・漂流物、魚介類・海藻、野鳥、動物、昆虫、植物、考古など各分野の専門の先生方が調査団のメンバになっています。
輪島沖に浮かぶ二つの離島「舳倉島(へぐらじま)」と「七つ島(ななつじま)」の自然環境について、北國新聞社が2008(平成20)年から2年余りをかけて実施した自然環境調査団の成果や、豊かに息づく動植物、魚介類、昆虫類の姿が収められています。
「舳倉島(へぐらじま)」は「わじまの海塩」の原料の海水を取水している場所。
「七つ島(ななつじま)」は「わじまの水塩」の原料の海水を取水している場所。
中道肇の生まれ育った島々です。
どのページもとても興味深いものなのですが、その中で特に興味深かった内容をご紹介します。
「重油流出事故のその後」という項目です。
1997年1月、ロシア船籍タンカーの「ナホトカ号」が島根県隠岐島沖で座礁し、へし折れた船首部分が福井県三国海岸に漂着したという事件を覚えていらっしゃいますでしょうか?
船首部分からは、大量の真っ黒な重油が海岸に漏れ出し、流れ出た重油は能登半島の西側一帯の海岸に漂着しました。
私も、「ナホトカ号」という名前や、テレビニュースで、地域の住民や、のボランティアたちの皆さんが、柄杓(ひしゃく)とバケツで油の除去をしている作業が映ったのを覚えています。
その重油流出事故の直後の2,3月、北國新聞社と金沢大学で、舳倉島と七ツ島の環境調査を行ったときには、油膜は海面を帯状になって漂い、海藻やごみを含んだ塊が海岸に押し寄せていたそうです。
七ツ島の一つに船で上陸してみると、大量の重油が大きな岩の間に漂着し、岩の表面の海藻が黒く覆われるという惨状が広がっていたそうです。
さて、それからその重油はどうなったでしょう?この本に書かれていました。引用してご紹介します。
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流出事件から11年経った2008年5月、今回の自然環境調査で舳倉島、七ツ島(荒三子島、御厨島)で重油汚染のその後を調べた。
埋められた油、大きな火山灰や溶岩、コンクリートの表面にへばりついた油は11年経っても黒く残っている。
ところが、本来の重油が持つ異臭や粘着性がない。手でも容易にはがれるほどである。
黒い部分を持ち帰り、電子顕微鏡で観察したところ、重油は「ろう」の一種である無害なパラフィンに変わっていた。
パラフィンには球菌、杆菌、糸状菌の「石油分解細菌」がぎっしりと詰まっていた。
つまり、重油が石油分解細菌の働きによって無害なパラフィンに変化していたのである。
自然の浄化力に驚かされるばかりである。
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海水の中に生きる石油分解細菌・・・。自然の力は本当にすごいですね。
「日本海すごいっ!!」と思ってしまいました。
この石油分解細菌の力は、いろいろな分野に応用ができるのではないかなと思いました。