塩士・中道肇が12才で無人島暮らしをしたワケ
中道肇が中学1年の夏に、お両親からのお仕置きで、島流し(?)され、1ヶ月無人島ぐらしをした、ということを
ちらりとご紹介しました。
いったい何をやらかしたのでしょうか?
海女さんのお母さんと、漁師のお父さんという家で生まれそだった中道肇。
普通の海女さん一家と同様に、舳倉島(へぐらじま)と輪島市と、家は2軒あり、夏には、舳倉島(へぐらじま)で暮らし、冬になると、輪島市で暮らしていたということです。
島育ちのため、力も強く、相撲大会では負けたことがないという、わんぱくなガキ大将だったそうです。そして、いろんなアイデアを考えついていたのは、子供時代から。
風呂敷をマントにして、空をとぼうと、屋根から飛び降りて、骨折したり、というようなことは日常茶飯事だったそうです。
あるとき、海の中を潜るのに、顔にバケツをかぶれば、息ができるから大丈夫と考え、嫌がる友達を引き連れて、足に重しをつけて、バケツをかぶって、海に潜って、海の底を探検したのだそうです。
はじめのうちは、息ができたそうなんですよ。
でも、そのうち、バケツの中が吐いた息の二酸化炭素だけになり、苦しくなり、でも、足には重しがついているので、浮き上がれず・・・
・・・ということで、命がけに。
なんとか助かったそうですが、友達の親からクレームがきて、お母さんは平謝り。
この調子では、夏の忙しい海女漁の季節に、この子をほっておくと大変なことになるから、と、無人島の七ツ島に、友達と二人、送り込まれてしまったそうです。
それがこの島。
七つ島。輪島市から20キロ沖。輪島市と舳倉島の真ん中付近にあります。
マッチと米と味噌だけ持たされて、1ヶ月、魚を採って、海藻を食べて、暮らしていたそうです。
「塩」を持っていかなかったのかって?
塩は、岩場の上に、自然にできたものがあったそうです。まさに天然に海水が蒸発してできた塩。
中道いわく「タコをとって、焼いて、岩についている塩をつけて食べたのがうまかったな~」だそうです。(中道の体験すべてが、今の塩作りへの道になっていますね)
無人島といっても、夏の間は、お母さんの仲間の海女さん達が、海女漁のために船を寄せるので、共同体で、誰かが毎日かならず、生存確認してくれていたそうです。お母さんはそれも見越して、息子を島流ししたのでしょうね。
中道は、船が来たら、海女さんが目を離しているスキに、島から脱出しようと船の中に隠れこんでいたそうですが・・・、賢いお母さんは、さらにうわてです。
海女さん仲間には、お母さんから「船の中に隠れるに違いないから、帰りにはチェックしてつまみ出してくださいね」と厳重に頼んでいたそうで、何度も、船の中に隠れていたのを見つかっては、追い出されたそうです。
・・・・
こんなのどかな話を聞くと、ずいぶんおじいさんの話のように感じますが、中道肇は1957年生まれ。
昭和の時代というのは、本当に、高度成長期だったのですね。