人を好きになれますか?

子供の時は、簡単になれていたのに、大人になってから難しいなと感じている人は、一定数いるのではないでしょうか。

 

理由は2つあると思っています。

1つは、人のために生きているかどうかについて。

もう1つは、好きを同一になろうとすることと、その対象と、同質であろうとすることという風に思っているかどうかです。

 

目的が違う人と、出会いすれ違っていく。目的が、例えば同じ仕事仲間であれば同じであり、関る大義銘文があるということで、自分という存在に、他人を引き付ける魅力がなくても、関わっていようという気分になれる。

人を引き付ける魅力とはなにか? 人を好きになれる気持ちが、その一つであると私は思っていました。子供の頃の、人付き合いの基本となる

気持ちが、人を好きに思う気持ちであり、それがあれば、人付き合いで、困ることは、無かったからです。

(幼少期の友達と喧嘩したりといった問題はあっても、大人になってからの人付き合い上の別種の問題です。)

 

人によりけりでありますが、中学生になる時分に、自分に利益を引き込むために動くということに対する疑問が生じて来ます。

子供のときは、ある種、己のしたいことに忠実なことが、世間的にも、自分的にも、許されている感じがします。例えば、隣りで静かにしている人がいても、横で平気で騒ぎますし、そのことについて、後で、後悔することもないでしょう。そういう点で、自分の欲求に忠実であることが、特別に歓迎されている期間なのかもしれません。それに、小学生くらいまでは、自分への利益を多くしようという考えもそもそもないのかもしれません。その子の衣食住と命運を担っている大部分が、親であり、ある意味、子供はその子の親の為に生きていると言えるので。

 

つまり、子供は、突き詰めるとその親の為に生きている。言い換えると、ひとの為に生きているのが前提にあるので、そこから、出来うる限り自分のしたいことをするのを許される気持ちになるのかもしれません。

 

仕事で、仕事(の先にある顧客という他の人)のために生きる時、普段の自分とは違ったパワーが出て来ます。そして、仕事のために生きると、あまり自分という存在がどう思われているのかや、自分への利益になることであるか、といったことへの意識が薄れていきます。それが、子供の時には、仕事の代わりに親であったのかもしれません。

 

 

あとは、子供の頃は、程度の差はありますが、人を区別し、自分の培って来た基準で裁くようなことは、あまりないということが絡んでいます。好きと思える許容範囲が広いので、自分もその分気持ち的に大らかでいられるのでしょう。

 

それが、年齢が大きくなる(思春期を超えたぐらいから)につれて、脳みその仕組みとして、物事を仕分ける・分類するという働きが強くなります。そうなった脳みそで、幼少期と同様に、他者を好きになろうとすると、対象と同一になろうとしつつ、脳みその方では、対象を、自分の中にある引き出しに分類し、現状の自分との違いを露わにしようとします。自分と違う性質の対象物なのに、自分と同一であろうとすることに矛盾が生じるのです。

 

 

しかしながら、この世がなぜ生じたのかという原点に戻って考えてみると、原始の最初の宇宙はたった1つの粒子であって、その1つだけの存在では、1つの見方しかできず、その見方を伝える対象もおらず、非常に寂しく、何も変化がないということで、もともとあった1つの粒子が、自身とは、異なるもう1つの粒子に分かれたところから、この世が出来始めたという説があります。

 

違う存在が、違う見方・性質で違う体験をすることが、最初の原子宇宙の望みであると言えるならば、他の存在と同一の性質で同一の体験をすることでは、あまり喜ばれないと言えます。

現代の社会では、秩序を大事に周りにあわせて、メディアや学校教育で、ある程度同一の人間性と社会性を持つことが良しとされがちですが、そこが、原始宇宙の始まりの意志とそぐわないところなのです。

 

 

つまり、いかに人と自分は、かけ離れた存在なんだと感じるために他者と関わるのです。その心の準備としては、まず、自分が生きたいと思う人生軸で生きているということが、その関わりを有意義なものと感じさせる条件と言えるのではないかと思えます。

 

 

人と違ったら、または、平均的なレベルに達していなかったら、それを改善しようとするのは、各人の自由ではありますが、それを自分がやっているから、自分が自分を抑えていることの反動で、人にも強要してしまわないような心持ちでいることが鍵なのです。

 

 

どうしたら、相手との違いを理解できるのだろう?と考えることが、肝要であると、最近知った いきひろし さん という作家の本を読む中で思うようになりました。

 

何かわからない問題に出会った時に、わからないと思うと、思考がストップしてしまいます。

そうでなく、『どうしたらいいんだろう』と思うことが思考を動かして行くのです。

答えは1つでなく、間違いもなく、合理的であり、また、何かをやろうとすること自体が、自分が、生まれて来た意味であり、貴重な経験なのです。人は、やらずに賢くなれる人は大抵おらず、やってみて、こうじゃないんだなとか、学びながら、物事が分かりつつ、新たな発見をしていく生き物なのだなと。