それはまるで、壮大で悲しい映画のストーリーのように見ている。
作られた物語のように、
悲しみに寄り添うふりをしながらも、真実など、まったく知りもしない。
妄想の世界の中で、あたかも、その恐怖と対峙したかのように悲しみを、綺麗な言葉で書き綴る。
そんな、嘘めいた、偽善めいた発言に、私はいちいち腹を立てている。
自分自身も、その1人に過ぎないにも、関わらず。
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『忘れない』
そんな言葉でこの未曾有の事態を片付けて欲しくない。
10年がいったいなんだというのだ。
当人たちに取ってみれば、いくら時を重ねようと『区切り』なんてものは存在しない。
綺麗事、美談、そんな風に悲しみをまとめあげようとすることが、なぜだが酷く悔しく思えて仕方がなかった。
不思議に心の中にわき起こる、悔しさと悲しみ、苦しみ、恐怖、かき乱される心、これの正体を掴めぬままに、
抑えきれずに筆を執る。
10年前のあの日から、その思いは変わらない。
自分を突き動かす『それ』がなんなのかを、自分でも知りたい。
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検索ワードに絡みついてきた【共感疲労】
これを単に感受性豊か、で済ませて良いのか。
あの時、脇目も振らずに現地へ足を運ばせることに前向きだった自分、使命のようにさえ思えてしまったこと、
自分が経験しているわけでもないのに、押し寄せてくる感情、涙、
それらをうまく結論づけることができずに、悩み、苦しんでいる。
思い立って急にシャワーを浴びる時も、お手洗いに行く時も、
『もし数分後に何か起こったら』そんな想像をしながら行い続ける日々。
これは一体なんなのか。
その理由を、
その意味を、
知りたい。





