図書館で借りた、この本ですが、明日が返却日ですので、

覚えておきたいなという文章をメモとして、ここに記しておこうと

思います。でないと、最近のわたしはすぐ忘れてしまうので・・・。


「小田と初めて会ったのは山手英学院に通っていたときで、通学路が

一緒だったんだ。俺も小田も京浜急行で通ってたんだけど、ある日の

こと、昔は、運転席と客席が鉄棒だけで仕切られていて、ちょっと足を

のばせば警笛ならしたりなんていたずらができるわけ。確か、そんな

いたずらをしてたんだ、小田は仲間と。

それを見ていて、おれもやりてえなあと思って、寄っていったのが、

初めてだって気がする。そこで友だちになった。」


「たくさんいる友だちの中で、小田を意識したのはいつのことだったかな。

最初は地主に、ギターとか教えてもらってたでしょう。俺も、そんなふうに

ギター教えてもらって音楽仲間になった。

それで、ギター弾き始めたときには小田のセンスにはあまり気がつかな

かったけど、歌を歌い始めたときからあきらかに変わったんです。

俺のほうは、それまで人前で歌ったことないんだけど、小田はけっこう

歌うまかったわけ。どこで歌ってたかよく知らないんだけど、英語の

発音とかちゃんとしてて、うまく歌うわけ。

俺もそれなら歌ってみようかってんで、ビートルズとか歌い始めたわけ。

そしたら、けっこうバッチリだった。学校の音楽教育みたいなのはきらい

だったんで音楽の知識ないんだけど。

だから、うまいとかそういうのわからないんだけど、雰囲気がとにかく

いいわけ。

小田とやってるのが一番おもしろいなと思った、そのとき。ばっちり

ハモっちゃったりしたからね。

小田は昔からああいうカン高い声だった。でも、不思議とふたりの声質は

合っていたんだ。そのときからだね、特別に小田を意識したのは。」


「練習する場所は俺の家だったり、小田の家だったり、あとね、海の家

借りて三人で練習したりした。小田と地主は大学は一緒だったけど

学科が違っていたので、帰ってくるときは一緒だったり、別々だったり

まちまちだった。

練習の雰囲気は・・・酒はあんまり飲まなかった。昼間やるわけ。

ま、夕方それぞれの家庭でご馳走になったりとか。」


オフコースカンパニーを設立した話のあと、

「ちょうどその少し前くらいかな、小田と大げんかして、俺辞めるとか

辞めないという話があったんだ、一回。もう辞めようぜって話。

けんかしたのは新宿のルイードの楽屋だったと思う。

ルイード出たときにね。

そもそものきっかけは、オフコースとイルカが一緒にやるって話を

小田が俺に相談しなかったんだ。

イルカもシュリークスってグループで一時いたんだよ、サブミュジックに。

「私は好奇心の強い女」とか歌ってたころに。 

シュリークスもイルカひとりになるからっていうんで、ユイ音楽工房に

行ったんだ。で、そのときにイルカとなにかやりたいみたいなこと小田が

言い出したから、じゃ、俺辞めるとかいう話になっちゃって。

勝手に話が進んでいるみたいな雰囲気だったのね。あれおかしいなと

思って、もうやっぱり、ちぐはぐな感じしてるときだったから、じゃ勝手に

やればみたいな、感じになった。

だって、イルカとどうかするなんて話、考えもみなかったから。

なんでそんなこと考えてんのか、とか問い質していくうちに、小田のほうで

勝手にそういう風に思ってたみたいだった。

小田としては俺に対する苛立たしさみたいなのがあったんじゃないかな。

俺ってのんきにやってる感じするでしょう。積極的にアイデアだして

どうしようこうしようってやっていかないから。

だからそのへんはイルカとやった方がもっとうまく展開できるんじゃないか、

なんてね。そんな苛立ちみたいなのがあったんじゃないかな、小田には。

ま、だからそういう時期なんです。

しかし、ま、いいじゃない。そんなあせんなくて、みたいなのもあった、俺には。

オフコースの状況をどうするかっていう考え方の違いだったんだろうね。

今考えてみれば。

小田の方が先に、プロとしての意識にめばえていたってことだ。」


「仁たちを入れるときは話し合いも結構しました。そのときは、俺は今の

メンバー選ばなかった。違うメンバーの方がいいんじゃないかって思ったけど、

結局、人間的におもしろいからっていうんで、今のメンバーになった。

ただ、技術的に言えば、当時は今のメンバーじゃない方が、うまかった。

うまくなっても行ったと思う。

ただ、うまいから、へただからっていうんじゃないところの考え方ができたのが

小田だったと思うんだ。

俺は技術的にうまいほうがいいって思ってたから。演奏がうまいとか、歌が

めちゃくちゃうまいとか、そういう人を選ぶ方がいいと思ってた。でも、小田は

正しかったと思ってる。」


「俺にしてみれば、確かに『さよなら』はいい曲なんだけど、いわゆる叙情派

フォーク路線でしかないんです。ちょっと自分達がやってきたのと違うんじゃ

ないの、という意識があった。

小田自身もその辺はわかってやってて、気持ち悪いけど、やってくれ、

歌ってくれって。コーラスやるときも、歌詞気持ち悪いけど、とか言ってた。

『さよなら』は『愛を止めないで』とかの路線じゃなかった。ただ、『さよなら』で

オフコースのイメージは決まってしまったってことはある。

ただでも、『さよなら』のオフコースよりも、ステージで盛り上がってるとか

何人集めてるとかって言う方が、『さよなら』が売れたっていうことより、

意識としては強かった。

それで世の中を動かしているて言う、意識が強かったです。

『さよなら』で動かしたんじゃなくて、コンサートやってっていう。だから、

ステージでやってることの方が、それがオフコースだっていう気持ちがあった。

でも、やっぱり、『さよなら』のように、ヒットした方が一般的に印象が強い

ですからね。

これは実力がある曲なんです。やっぱりそういう曲は、自分で作らなくちゃ

いけないと思った。

自分で目指してるものがどうであろうと、そういう売れ線タイプと自分の

目指しているものが一致している時が一番強いわけであって、そういうところに

早く到達するっていうか、そういうものを早く作らないといけないっていう

気持ちが、やっぱり現実的にそういう状況を見せられると、自分のヒット曲が

ないとだめだ、グループの中にいても、鈴木康博って名前なくなっちゃうと

思った。」


「オフコースはプロになったのは早かったんだけど、売れたのは遅いじゃない。

拓郎、陽水、かぐや姫が先行して、ユーミン、アリスなんかが出て、その後に

やっとって感じじゃない。だからやっぱり追っかけてるようなところってあったと

思うんだ。・・・(略)・・・

『眠れぬ夜』のときはかな売れるということを意識して作ったような気がする。

あれは、俺の中では、なんか違うんじゃないかな、という意識があった。

ちょっと下世話だったし、歌謡曲っぽかった。あの歌、小田が作ってきた詞は

全然違う詞だった。

でも、もっと歌謡曲っぽくていいんじゃない、とプロデューサーの武藤さんの

意見があって・・・それを参考にしながら、小田とふたりで話して、もっと歌謡曲

っぽくしようぜっていうことになった。

ということは売れ線を意識して追っていたってことです。

『秋の気配』もそうだった。だから、外から見えてるほど純粋ではなかったって

ことだね。」


「今まで俺がやってきたことって、学芸会でしかなかったって気持ちが、

あるんだよね。だから、芸人としての、風格みたいなもの、もっと身につけたい。

そんなことがあってか、しゃべりに対する意識って変わった。今までしゃべる

ネタなんて書いたことなかったけど、書いてるんだ、最近は。

オフコースの頃って、しゃべりなんていらないって、みんなで言ってたんです。

しゃべりなんて、たまらないって、感じだったけど、そうじゃないんだよ、今は。

人間性って、ステージで見せるものじゃなくて、にじみ出てくるものだと思う

けど、しゃべりはその人間性が見えてくるって意味で、歌詞と同じくらい

重要な要素だと思うよね。」


この本、いまヤフオクに出品されてるんだけど、なんと2万以上するんですよ。

買う人いるのかな?