先の、先述していた、一番最初に述べていた、話に又、逆のぼり、この文章の当初の、物語の始まり、この文章群の初め、最初に戻るんだが、日蓮正宗の、我がお寺の若干名の方々に、色々言われ、偏見も持たれ、皮肉も言われ、差別を仮に今の私が、仮初めにも受けたとしても後悔はない。今、現在、この、星ヶ丘病院病棟で、約一か月間、受けた治療、鍛え上げられた仲間、患者同士の、はかなくも、太く、強い絆。

 それだって、一過性、一時的なもので、依然、私の、自分が言うのも変だが、「博覧強記」の、強い、人よりも数倍深く記憶できる事が、全くの「仇(あだ)」となった事がある。

 その人は三十年前に、私と最初、保護室に入れられ、一緒にその中で別々にそれぞれ部屋に居たが、私はその息苦しさから、題目の「南無妙法蓮華経」、彼は天理教の信者で、その祈りの言葉「悪しきを払うて助け給え天理王のみこと」と、私と彼は、競うように、宗教がかって、その監禁の医療生活を送っていた。何よりも、それら、読誦の、宗教が、今その当時を生きる、何よりの生きる道、救いであった。

 その後、二人共、保護室からも出られた。

 数か月を過ごし、彼と別れる時、彼は私に、彼の東京の住所と電話番号と名前のメモを書き、私は持って来ていた岩波文庫のうしろのページに、大事に取って置いた。

 その後、ちょうど、ハートピアきつれ川で働きだしていた、その時、たまたま、福島の郡山に戻り、書棚から、件のアドレスメモを見つけた。

 私は喜んで、彼に今、私の現在の精一杯頑張っている旨を伝えたく、それから、十年以上は経ってはいたが、勇気を振り絞り、私は思い切って、電話を掛けた。 

 そしたら、偶然、彼の当時からの親御さんが出て、私は彼の名を言い、今、彼は元気でいますか?私は福島県郡山市の者です、というと、その親御さんは、「待ってて」といい、とうとう、約十年ぶり位で、大人びた彼が電話に出た。

 しかし、彼は不思議な事に、全く、これは演技か、と思う程、私に思い当たる事が全く無く、「誰ですか?分かりません」と言うぶっきらぼうな返事と共に、電話が切れた。

 しかし、時間の推移と共に、彼にも、色々の人生の転変を繰り返した以上、演技ではなく、本当の事だったのだろうと、今では私は思い返している。

以上。よしなに。wainai