今は、私自身は、何十年もの長きに亘り、郡山市並木の、Tクリニックに、今月に至るまで通って来たが、ある事、事実、実際上の問題が沸き上がり、この病院を、今回限りで、辞める事にした。

 それは何故か、というと、私は、実際に今は、障害年金で暮らしている。

 けれども、私は、これからは、自分の食い扶持で、自分で稼いで、御国のお世話にばかりなってはいないで、自力で、自分の力を試してみたいと思い始めた。

 そして、私は、ある日、郡山市のミニコミ誌、「ザ・ウィークリー」というミニ新聞、タブロイド判の、ある日ある週の紙面に、気になる記事を見つけた。

 それは、そこの一欄に、無料で、パソコン講座を開いている。しかも、厚生労働省労働局のお墨付きを得て、大々的に、何か、立派にそこの事業所ではやっていた。

 そこはエヌケーテック、という、郡山の、内環状線と、麓山通りとが交わり、総合体育館の前にある、ビルの一角にある。

 そこへ、その予約の電話を入れようと思い立ち、私は携帯から電話した。すると、電話で予約を取るのではなく、実際に現地まで、来て欲しい、就活カフェ、という、そこでの、その場で説明がてら、登録をします、というので、その日の午後には、私は東方面へ向けて、自転車を軽快に走らせた。

 そして着き、その中へ入ると、人が、何人か居て、私は、直接、その場で、自身の簡単な経歴、仕事をするのなら、どういう時間帯、曜日がいいのか、などを、その書類へと淡々と書いて行った。

 暫くして、職員が来て、それをじっくり読み、私に説明を始めた。

 

 そして、その、私の職歴を見て、直ぐに、察知して、私は何故か障碍者と判り、その場で、今度は「チャレンジドジャパン」という、障碍者の就労移行支援事業所を紹介され、そのパンフレットも頂いた。きっと、作業所十年、ホテル三年の、作業所、という単語に反応したと見受けられる。

 我が作業所の、Pステーションの、主任の女性の職員にその話の電話をした。まだその時は、私は一切、その障碍者と判られた意味は、まだ分からなかった。

 その作業所の主任さんは、○○さん(私)が、外見で障碍者と見破られるわけがない。一体なんでだろうね?と言っていたが。

 

 そして、説明が一通り終わり、会員ナンバーの書いてあるカードを受け取り、最初に来た時に、私は、仕事探しを、そこのPC経由で調べられると言うので、それを所望したが、これは、人が一杯で、その日は叶わず、諦めた。

 しかし、証明写真も希望していたので、その写真撮影をした。六枚も頂けた、もちろん何と無料で。

 そこで、私の、衣服の乱れを、やさしく年上の男性が、軽く服を直して下さり、普段から余り笑みを浮かべる事が苦手な私は、かなり難儀した。その優しく温かい男性職員が一眼レフカメラのファインダーからのぞいた時から、私は少し緊張の表情をしていたらしい。もっと笑って―、もっと優しい目で、とか、微笑んで、そうそう、いい顔、いい顔…。そうそう…。その調子。ハイ、パシャリ!

 という風に、カメラマンのその優しい男性に導かれるままに、六枚を一度の、一瞬の写真に詰め込んで、何枚か撮り、その内で一番の傑作をカメラマンは選び、帰りに私にそれらを渡して下さった。