私は段々、そこでの、初日の高卒後、初出勤にも拘らず、嫌になって来た。心の負担が増して来た。

 そこでは、夜、夜勤の人の為の、畳敷きの仮眠室を最初に見せてもらった。雑魚寝で、ここで、働く者達が、集団で眠り、中にはいびきもうるさい人もいるんだろうな、と考えただけで、虫唾が走った。

 その仕事の後、私は、社員食堂へ向かい、食事、この時は、素うどんを食べたのを覚えて居る。と言っても、味など覚えて居らず、かなりの緊張感で、こちらは満たされていた。

 その後、何を思ったか、私はこの工場、K那須工場からの脱出を試みた。脱出は簡単だった。朝、入って来た構内の外の道路をそのまま何食わぬ顔で通り、門の出口で、守衛さんにも何も言われずに、駐輪場で自分の自転車に尚も跨り、家まで、やっと無事に帰って来た。

 うちでは、母が、私がその日の五時、六時まで、働いて帰って来るものだと思って居たのが、こんな、昼時、一時か一時半に帰って来たのを見て、どうして帰って来たの?等々、色々質問を受けたが、私は畳に横になって、ふて寝して、とにかく、私は学校時代が一番輝いていて、こんな難行苦行には耐えられない、旨を語り、母を黙らせた。それでも、母は母なりに、私のその、怠け癖には、全く納得いかないようであった。これも、おそらくは、私の内面からの、病気からくるものであったのかも知れない。何しろ、夜勤の、二交替、三交替が、本当に嫌であった。

 この時は就職難、就職氷河期であり、それが、就職できただけでも御の字だったのだが、この始末である。

 その後、そこの、工場の従業員たちが、私が急に、何の話もなく、消え去ったのを関知して、皆で、手分けして、工場内を、ケガをしては居ないか、機械に巻き込まれてはいないか、と心配して、そこらじゅうを探しまくっていたらしい。お世話になった、大田原職安で聞いた。職安でも、私は要注意人物として、ブラックリストまではいかないが、変な人間と言うレッテルは張られたみたいだった。

 そして、その職安で、又もや、仕事を斡旋してもらい、今度は、大田原市内にある、I印刷所、という、古い小さな印刷屋に就職した。