私は今年の九月二日金曜日、詰まり、2022年令和4年に、星ヶ丘病院に入院が決定した。任意入院で、Tクリニックの先生から、紹介状・委任状・推薦状をもらって、入院した。

 これには、私の福祉相談員の、青空相談室の、S井さんなどには、大変にお世話になり、実際、当日の、病院までの荷物の運搬、私の送迎までをお手伝いを願え、見事果たされた。

 何故、入院となったかの経緯だが、私の飲んでいる薬が、もう古すぎて、合わなくなってきていた。聞いた所によると、1960年代?の、セレネース、ピレチア、という、時代に合わない薬で、而も、この八月に、私はT先生に、愚痴と言うか、この病気になったのも、うちの父が、私が高校在学中に亡くなり、私の若い時に亡くなった、それが原因ではないのか、しかも、当時は、私は福島県立安積高校時代、新潟大学、金沢大学、北海道教育大学、宮城教育大学、福島大学、等々の国立を狙っていたが、成績は低迷して居り、もう、嫌な担任に、就職した方が得策じゃないのか、と勧められる程の、惨状であった。

 それで、その後の人生に於いて、大分後年、私は幸せにも、私学の法政大学法学部法律学科に入学するも、一年で退学する。

 これに対して、私はT先生に、当時のバブル期は、早稲田大学が全盛期で、東大よりも早稲田が人気があり、当時から、私は早稲田に本当は行きたかった、何としてでも、叶えたかった、と先生に初めて告白し力説した。

 これには、今年の、八月初日に先生の所をお邪魔して、診察を受けた時、先生なりに、これはおかしい、と思っていたらしい事を、この年、今年の八月三十一日の、青空相談室のS井さん、その上司のK田さんと、私との、この日の、Tクリニックに来て下さったお二人とも、その時、先生の打ち明け話、先生の御話を、私たちは黙って聞いていた。

 そして、星ヶ丘に入院を勧められ、その日から、それへの準備に追われた。

 

 しかし、おかしいと、今現在も思うのは、T先生とは、数十年、三十年は近い、付き合いであった。それなのに、先生は、私が郡山市出身者としてしか、その当時も現在も、知らずにいた事であった。

 私は、何度か、自分は、関東出身、それも、神奈川県足柄上郡開成町の生まれ、母も、東京都出身者、山の手の出身者だと、何度も先生の前では言っていた筈なのに、全然周知徹底が図られず、T先生は、他人事のように聞いていたのか、全く気にされる事がこの時の、診察まで、全然伝わることなく、このA相談室の前の、別の病院系の男性相談員ケアマネが作った資料を現相談員S井さんが見せて、初めて知った事だった。

 

 これには、私は、呆れるというか、何と言う、時間のムダ。時間を返して欲しい。ちゃんと、私達親子、母子の、面倒、姿、様子を、この先生は、全く知り得る術が、この時までなかったのか、果たして。との、蔑みにも似た、思いをこの時、致した。

 

 母がこの場に居たら、即刻、此の入院の設定事項を、その場で破棄して、私の名前を呼び、「帰りましょう」と言い、うちに怒りを込めて帰って行った事だろう、それ位、この医師は人をバカにしていた、と、今更ながらに、思った。

 

 それはさておき。閑話休題。

 

 それ以前の、一度目の、これは措置入院であったが、この後、平成四年、栃木県立宇都宮高校に転校入学試験に合格内定をもらい、その為、星ヶ丘を退院して、二年間、みっちりと勉学に勤しんだ。

 結果、優秀な成績で宇都宮高校を平成六年、無事、卒業を果たした。それから、一年間くすぶり、就職活動をしながらの、大学進学を目指した。

 この一年間、私は色々な仕事、業種を経験した。まずは、三日坊主と言うか、一日、正確に言うと半日で辞めた、K那須工場。西那須野町、現那須塩原市にある。ここでは、ピューレと呼ばれる、トマトやにんじんの、すりつぶしたものを、かなり重い袋詰めのものを、研究室に運び込み、サンプルを、顕微鏡にて、中身を確認し、異常が無ければ、出荷に回す、と言う、単純作業と言うか、そこでは、そのピューレを運ぶのが男の仕事で、女は、たーだ、施設内の、研究室に籠って、実験だけやってればよい、と言うのがまず第一に、男女差別、女性優遇だと私は思い嫌になる端緒となった。そして、そこは、二交替制三交替制位の、夜勤もある。これに耐えられるのかも心配だった。おまけに、月曜から土曜勤務であり、私の様な服薬者の、病院の薬をもらって居る者が、果たして行っていい工場なのかも、疑問であった。

 ここは、何でも恵まれていて、社員食堂が完備であった。将来的には、パート・アルバイト勤務から、頑張れば、の話だが、一般の正社員への門戸も開いていたような気もする。

 そこの、社員食堂の時間まで、半日、私はへーこら、へーこら働き、学校、学生時代とはまるっきり違う、あの、学生時代は、受け身でも何でもよかったが、社会人になると、自立、自分で何事も考え、自分で決めなければいけない。そして、長い時間拘束され、その結果、努力が認められれば、お給料が頂ける。そこまで行くのが、自分は難儀し、大変であった。