今日は友達がネット上に書いていた「他人からの視線」について考えたいと思います。
結論からいえば、僕は他人からの視線というのはどうでもいいのです。
なぜかと言えば、そんなこといちいち気にしていたら正直生きていけないからです。
例えば、僕は服装の関係もあり、電車に乗ると結構な人の視線にさらされます、学校を歩いていても円になって話している人たちの会話を止めることもあります。
さて、ということは、少なくとも電車なら一つの車両に大体100人程度、学校であれば休み時間に大体1000人くらいの視線にさらされるわけですね。
日本全国になれば一億以上の視線があるわけです、もちろんそれは嘲りであったり、興味であったり、尊敬で会ったりといろいろあると思うわけです。が、基本的に道行く人が僕のことをどういう感情で見ているかなんてわからないですよね(わかる方は尊敬しますし、弟子になりたいです笑)。
所詮、大体の視線というのはこっちの妄想で構成されていると考えていいでしょう。
僕も今みたいな服装になった当初は非常に他人の視線が気になりました、なんだか馬鹿にされている感じしかしなかったし、非常に不快でした。
ただ、そこで僕がやめなかったのは、「人に言われてやめるようなこと最初からやんじゃねーよ」という中学校の恩師(女性)からの言葉でした。
これは僕自身の最初の哲学であると確信しています。
上記の言葉はうえみたいなケースにあてはめて考えれば「人にどう見られているか気にしてやめちまうようなことしてんじゃねーよ」とも言い換えることができます。
個人的に、これは自分の正義の根源的な考え方で、とりあえず、自分が正義だと思うことは正義だと思っていいのです、その当否は別として、それを貫き通せる人間になれということかと思います。
正しければ生き残るし、間違っていれば淘汰されるんだから。
まぁ、結果ヒトラーみたいな結果になってしまうこともあるからさ、注意は必要ですね。まぁ、僕はそうはならないので。
あの時代に何がいけなかったかということはまた別の機会に考えるとして、そこにも他人の視点が介在することはしっかりとらえておくべきことだと思います。
あくまでマイノリティーという存在を考える上での話なので、ここでは割愛。
僕は他人からの視点を気にしないことができるけど、それが簡単にできない人もいる。
うーん、できるようになるには少しの時間と勇気が必要かと思います。
世界、若しくはもっと限定された社会というコミュニティーの中での自分に対する視点が自分が望むものと大きく異なっている時、そのギャップが自分にとって辛辣であるとき、どうするか、これは大きく分けて2つありますね。
自分が変わる、若しくは周り(コミュニティー等)を変えるですね。
前者について。
例えば、皆さんは精神病疾患を患っている方に対してどのような印象をお持ちでしょうか?
何となく「怖い」とかいう感情を抱いていませんか?同じ電車で大声を出したりする精神的な疾患を持った方に対してそういった印象を持つのはあくまで「理解」の欠如であると思いますか?
僕はそれもあると思いますが、医者でもないのにいろんな精神疾患に対して知識を持たなきゃいけないというのは正直不可能だと思いますし現実的ではない、まぁこれから言うことも現実的ではないと思いますが…でも、これは現実すべきかと思いまする。
僕はせめて偏見は持たないという消極的な心持が大事だと思います。
そして人一人を一つの人格として認めることができる必要があります、これは必ず必要だと思います。
理解ではなく、偏見を持たないという二者の間にはずいぶん差があると思います。
特に勉強する必要があるわけじゃないし、むしろ少しだけ無知になることが重要かと思います。
また、マイノリティーの方々。
正直、人違うことを外部に発信するということは難しい、精神疾患であっても、性癖であっても、服装であっても。
でも、実際そういうことを外部に発信してる人はどうだろうか?
すげさまれているだろうか、必ずしもそうは思わない。
最初に言ったような視線というのは割合は違えど必ず存在するのだから、それをどう受け止めるかということだと思う。
また、発信することでしか、理解を得られないと思います。
これは経験則から言えることでしかないのであれなんですけど、後述しますが、内向きになってしまうことで、理解されたい感情と自分がそれに向かっていない現状のギャップが生まれるわけです。
理解されたいと思うのに、案外理解されるように動いている人というのは少ない。
仕方がないことでもありますが、そういうところを変えていかないと何も変わりません。
もちろん、それに対する恐ろしさというのは理解しているつもりです、若干ずれていてもね。
そこも含めて自分が変わることが非常に大切だと思います。
はい、では後者に関して。
これは時間がかかると思います。
社会的な偏見(これを視点と言い換えても今回は差し支えありません)に対して立ち向かうのはなかなか、難しい。
前述しましたけど、僕たち一人一人の視点を変えることが大切だと思っています、さらに他人に主体的に動いてもらうことをしなくてはいけないから、ただ自分が頑張るだけではいけない。
自分の活動というものが押し付けにならないように、なおかつ人の心に入り込まなくてはいけない。
概論ではこんなところです。
ただ、時代的な背景をとらえればこれは昔よりも簡単になりつつあると思います。
こんな感じにネットを活用してもいいし、SNSも多様化している、グローバルにもなりつつある、この中でマイノリティーはマイノリティーではなくなりつつあるのかと思います。
ただ、いけないのは、前述した通りのマイノリティーと呼ばれる人達の内向き体質です。
これに文句を言うつもりはないし、言っても「どうせ自分たちの気持ちなんてわかんねーよ」とまた内向きに団結(同調)しておしまいになってしまう。
とまぁ、愚痴を言ってもしょうがないのでね…
えぇー、確かに自分らとは違うと考えていること自体は間違ってないです、違うんですから、ただ、それはこっちから言っても同じで、それが大きいか小さいかを比べてしまっているからそういう帰結になるんですよね。
外向きになれない理由というの結局そのコミュニティーにあるかと思います。
自分がそのコミュニティーの中で発信していることで、自分が発信しているつもりになっているのが、行動と思考のギャップの原因かと思います、これはこの場合に限ったことでもないですが。
難しさは理解しています、だって、そんなもん常日頃からあるんだから。
思っていることを発信していくことは難しい、方法的にもマインド的にも、自分の殻を破るには自分がそれに対していかに本気になれるかにかかっているかと思います。
理解されない自分を分析理解する必要があります、自分が理解される努力をしていますか?本当ですか?
まぁ周りの環境とかもあるんだけど、それを含めて変える努力はしなくてはいけないよね。
案外発信してみたら楽かもよって思うわけです、でもまぁ、それはあせらずにやってみればいいと思うんだよね~
まぁ、こんな中途半端なことで終ります笑
若干精神論になってしまいましたが、根本には自分の気持ちがあることは常に感じながら動いていきたいですね、まぁ、長いですよね、この日記笑
このテーマならあんまり資料とか参照しなくても、軽くレポート書けますね笑
はい、こんなところですかね。
服装とかでいろいろ違うと思いますよね、根本的には発信が大事です。
服はまず発信地点が、着るという根本的な問題。
一度着て、外に出るとそれが発信ですね、まぁ、ガガとかもそうですが、うん。
とりあえず、学校行く準備しようか笑
んじゃーまた!
結論からいえば、僕は他人からの視線というのはどうでもいいのです。
なぜかと言えば、そんなこといちいち気にしていたら正直生きていけないからです。
例えば、僕は服装の関係もあり、電車に乗ると結構な人の視線にさらされます、学校を歩いていても円になって話している人たちの会話を止めることもあります。
さて、ということは、少なくとも電車なら一つの車両に大体100人程度、学校であれば休み時間に大体1000人くらいの視線にさらされるわけですね。
日本全国になれば一億以上の視線があるわけです、もちろんそれは嘲りであったり、興味であったり、尊敬で会ったりといろいろあると思うわけです。が、基本的に道行く人が僕のことをどういう感情で見ているかなんてわからないですよね(わかる方は尊敬しますし、弟子になりたいです笑)。
所詮、大体の視線というのはこっちの妄想で構成されていると考えていいでしょう。
僕も今みたいな服装になった当初は非常に他人の視線が気になりました、なんだか馬鹿にされている感じしかしなかったし、非常に不快でした。
ただ、そこで僕がやめなかったのは、「人に言われてやめるようなこと最初からやんじゃねーよ」という中学校の恩師(女性)からの言葉でした。
これは僕自身の最初の哲学であると確信しています。
上記の言葉はうえみたいなケースにあてはめて考えれば「人にどう見られているか気にしてやめちまうようなことしてんじゃねーよ」とも言い換えることができます。
個人的に、これは自分の正義の根源的な考え方で、とりあえず、自分が正義だと思うことは正義だと思っていいのです、その当否は別として、それを貫き通せる人間になれということかと思います。
正しければ生き残るし、間違っていれば淘汰されるんだから。
まぁ、結果ヒトラーみたいな結果になってしまうこともあるからさ、注意は必要ですね。まぁ、僕はそうはならないので。
あの時代に何がいけなかったかということはまた別の機会に考えるとして、そこにも他人の視点が介在することはしっかりとらえておくべきことだと思います。
あくまでマイノリティーという存在を考える上での話なので、ここでは割愛。
僕は他人からの視点を気にしないことができるけど、それが簡単にできない人もいる。
うーん、できるようになるには少しの時間と勇気が必要かと思います。
世界、若しくはもっと限定された社会というコミュニティーの中での自分に対する視点が自分が望むものと大きく異なっている時、そのギャップが自分にとって辛辣であるとき、どうするか、これは大きく分けて2つありますね。
自分が変わる、若しくは周り(コミュニティー等)を変えるですね。
前者について。
例えば、皆さんは精神病疾患を患っている方に対してどのような印象をお持ちでしょうか?
何となく「怖い」とかいう感情を抱いていませんか?同じ電車で大声を出したりする精神的な疾患を持った方に対してそういった印象を持つのはあくまで「理解」の欠如であると思いますか?
僕はそれもあると思いますが、医者でもないのにいろんな精神疾患に対して知識を持たなきゃいけないというのは正直不可能だと思いますし現実的ではない、まぁこれから言うことも現実的ではないと思いますが…でも、これは現実すべきかと思いまする。
僕はせめて偏見は持たないという消極的な心持が大事だと思います。
そして人一人を一つの人格として認めることができる必要があります、これは必ず必要だと思います。
理解ではなく、偏見を持たないという二者の間にはずいぶん差があると思います。
特に勉強する必要があるわけじゃないし、むしろ少しだけ無知になることが重要かと思います。
また、マイノリティーの方々。
正直、人違うことを外部に発信するということは難しい、精神疾患であっても、性癖であっても、服装であっても。
でも、実際そういうことを外部に発信してる人はどうだろうか?
すげさまれているだろうか、必ずしもそうは思わない。
最初に言ったような視線というのは割合は違えど必ず存在するのだから、それをどう受け止めるかということだと思う。
また、発信することでしか、理解を得られないと思います。
これは経験則から言えることでしかないのであれなんですけど、後述しますが、内向きになってしまうことで、理解されたい感情と自分がそれに向かっていない現状のギャップが生まれるわけです。
理解されたいと思うのに、案外理解されるように動いている人というのは少ない。
仕方がないことでもありますが、そういうところを変えていかないと何も変わりません。
もちろん、それに対する恐ろしさというのは理解しているつもりです、若干ずれていてもね。
そこも含めて自分が変わることが非常に大切だと思います。
はい、では後者に関して。
これは時間がかかると思います。
社会的な偏見(これを視点と言い換えても今回は差し支えありません)に対して立ち向かうのはなかなか、難しい。
前述しましたけど、僕たち一人一人の視点を変えることが大切だと思っています、さらに他人に主体的に動いてもらうことをしなくてはいけないから、ただ自分が頑張るだけではいけない。
自分の活動というものが押し付けにならないように、なおかつ人の心に入り込まなくてはいけない。
概論ではこんなところです。
ただ、時代的な背景をとらえればこれは昔よりも簡単になりつつあると思います。
こんな感じにネットを活用してもいいし、SNSも多様化している、グローバルにもなりつつある、この中でマイノリティーはマイノリティーではなくなりつつあるのかと思います。
ただ、いけないのは、前述した通りのマイノリティーと呼ばれる人達の内向き体質です。
これに文句を言うつもりはないし、言っても「どうせ自分たちの気持ちなんてわかんねーよ」とまた内向きに団結(同調)しておしまいになってしまう。
とまぁ、愚痴を言ってもしょうがないのでね…
えぇー、確かに自分らとは違うと考えていること自体は間違ってないです、違うんですから、ただ、それはこっちから言っても同じで、それが大きいか小さいかを比べてしまっているからそういう帰結になるんですよね。
外向きになれない理由というの結局そのコミュニティーにあるかと思います。
自分がそのコミュニティーの中で発信していることで、自分が発信しているつもりになっているのが、行動と思考のギャップの原因かと思います、これはこの場合に限ったことでもないですが。
難しさは理解しています、だって、そんなもん常日頃からあるんだから。
思っていることを発信していくことは難しい、方法的にもマインド的にも、自分の殻を破るには自分がそれに対していかに本気になれるかにかかっているかと思います。
理解されない自分を分析理解する必要があります、自分が理解される努力をしていますか?本当ですか?
まぁ周りの環境とかもあるんだけど、それを含めて変える努力はしなくてはいけないよね。
案外発信してみたら楽かもよって思うわけです、でもまぁ、それはあせらずにやってみればいいと思うんだよね~
まぁ、こんな中途半端なことで終ります笑
若干精神論になってしまいましたが、根本には自分の気持ちがあることは常に感じながら動いていきたいですね、まぁ、長いですよね、この日記笑
このテーマならあんまり資料とか参照しなくても、軽くレポート書けますね笑
はい、こんなところですかね。
服装とかでいろいろ違うと思いますよね、根本的には発信が大事です。
服はまず発信地点が、着るという根本的な問題。
一度着て、外に出るとそれが発信ですね、まぁ、ガガとかもそうですが、うん。
とりあえず、学校行く準備しようか笑
んじゃーまた!