今日は通っている教会では恒例の日曜礼拝だが、今日はいのちのことば社の出張販売があった。以前、土曜日にこの教会の使っているいのちのことば社の聖書を求めて、神田古書街を廻った。私は高校時代から日本聖書刊行会の聖書を用いているのだが、流石に根負けした。尤も古書店で見掛けるのは日本聖書刊行会や出版社独自の聖書、新世界訳まで見掛けたのだが、いのちのことば社の聖書は見付からず、三省堂書店で購入した。いのちのことば社は福音派、この教会がアメリカ発祥のファンダである以上、当然の選択で、自由主義神学の日本聖書刊行会とは翻訳が違う。明日は洗礼式だが、私は結局、洗礼には縁がない。それでも別に一緒に出掛ける分には構わない。幾台もバスで分乗して東京湾に出掛けるのだが断った。全身での浸水、パブテスト派。別に私には抵抗はないのだが、私に問題がありそうだ。今回の同社のプレゼンでは、ダーゥインを否定して創造論に至った生物学者の著作の紹介などあった。進化論は飽くまで科学であり所詮は仮説で、よりもっと多くの事を説明できるのなら、幾らでも進化し変貌を遂げる。創造論は飽くまでも聖書の記述で普遍の真理の筈でそもそも比較しても意味がない。まあ、今回の目玉商品は九千円台の大判の注釈付の聖書、中判の四千円台のも、ポケット判の三千円を切った新刊書も同社では扱っているのだが、これは誰でも持っている、と言うのが前提になろう。最初に主任牧師とその件で話をしたのは幾年前だったのかは覚えていない。ただ、その出張店舗はワゴン二つ分だが、恐らくは同社の出版物だけではなく、佐藤優の書籍も見掛けた。まあ、ここでは、経済の話は結構するのだが(その癖、町内会並みに単式簿記。非営利法人ですら採用している複式簿記と財務三表が身近な私には歯痒い)、何事も主の思し召しで、全ては人知を超えた事。主の意思に寄らずして木の葉一枚落ちる事はない。難をもなす神。これが小室直樹の答えだ。因果律ではなく不可知論がこの信仰の筈なのだが、見返りを求める事に汲汲とする理由などない。私には家族がいない。これからもできないだろう。