Sweets Blog
Amebaでブログを始めよう!

笛吹き川の伝説

笛吹権三郎の碑  (芹沢入り口バス停)

笛吹き側を渡ったところが芹沢という集落でここが笛吹権三郎と母が住んでいたところです。

 権三郎の父は藤原道義といい、「正中の変」といわれる鎌倉幕府(北条高時)転覆を画策した一人として、追われる身となり、都を逃れてゆきました。道義の妻と子は風のたよりに、甲斐に逃れたという、夫を父をたずねるつらい旅を続けました。ようやくここまでたずね来た母と権三郎は、芹沢の里の村人のなさけにすがり、川辺に小さな丸木小屋を建てて、ここで暮らしながら父の行方を探す事にしました。わびしい母子の暮らしの中で、唯一のなぐさめは、幼い頃からきびしくしこまれた、藤原家に伝わる権三郎の笛の音でありまました。権三郎は毎夜や川辺の大きな岩に立ち、横笛をかなで母をなぐさめ、父を慕っておりました。その美しい笛の音は村人の心に浸み渡ってゆきました。そんな静かな平和な日々も長くは続かず、ある年、この地方を襲った大嵐と洪水のため権三郎と母は家もろともに濁流に呑み込まれ、気がつけば権三郎一人が、九死に一生を得たのでした。

 悲しみの権三郎は、日夜、母の好きだった曲を奏でながら、濁流にのまれた母をさがし、渓流をさまよい歩いておりました。しかしさがしもとめる母の姿はどこになく、疲れ果てた権三郎はいつしか川の流れに姿を消していました。数日後、権三郎の変わり果てた姿は、芹沢の里より十数キロ下流の小松(春日居村)で発見され、長慶寺の住持によって手厚く葬られました。

 それからというもの毎夜半過ぎに、権三郎のかなでる美しい笛の音が、どこからともなく響き渡り、両岸の里人の耳にも届くようになりました。いつしかこの川は笛吹き川と名づけられ、里人たちは異郷の地にさびしく散った、権三郎母子霊を手厚く弔った、とかたりつがれております。

フルーツの香りの誘われて、

フルーツの香りに誘われて「風林火山」の国へ行ってきました。
「ほさき農園」お気に入りの農園で、私はお爺さんの時代からお世話になっていて桃の季節・ぶどうの季節と、皆さんを誘って行ってくると皆さんは、また行きたいと催促に来る次第、2007年7月28日(土)寄居を朝7:00頃出発途中道の駅などを利用しながら10時前後に到着、すでに多くのお客さんが店先で品定めの最中とありおかみさんが忙しく応対に追われる。
たがいに元気な顔を喜び日ごろの無沙汰を詫びながらシーズンの始まりとぶどうの季節の終わるまで愛情をこめて生産した桃やぶどうの良し悪しと、お客さんの喜ぶ顔を楽しみ

お城のある風景

上田城、真田昌幸が心魂こめて天正11年に築城に取り掛かり、翌12年に完成とあるが戦略と武略を実践するには昌幸を満足させるほどの完成度ではない。信長がjh本農事に斃れ、秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が小牧長久手の戦で織田信雄と秀吉との和睦を見て、家康は軍を引き休戦する。
子の会戦の戦果によって家康の戦略家としての力を示し家康は駿河・信濃・甲州・上州の領有を意図し昌幸に沼田の城を北条に渡すよう要求する。
 昌幸はこれを断る、時を置かずして家康軍団の上田城攻めが天正13年の秋に、家康対昌幸の第1回目の会戦が始まる。
 軍容を比較すると真田軍2千に対し、徳川家康軍が5倍の用兵を繰り出して攻撃するが「昌幸は見事撃退する。
ここに真田一族の戦術の妙を示し真田昌幸武略評価を世に問うことになる。
 第2回目の会戦は天下分け目の「関が原」の戦いにむかって家康の息、秀忠率いる徳川第2軍団4万の用兵、本田正信が秀忠を補佐する。
家康は正信に対しくれぐれも決戦に遅れぬようにと念をおす、そこで昌幸は秀忠軍団を足止めすること一週間。
関が原戦が勝ち戦に終わった旨、秀忠に届いたのは二日後の9月17日。まだ妻籠の途次。20日に追いつき目通りを願うが「不届きものには会わぬ」はねつけられる。ここに秋空に似合う上田城