ナジル人としての誓願 | 主は私の羊飼い

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「しかし、私はあなたがたに告げます。今から、私の父の御国においてあなたがたと共に新しいものを飲むその日まで、私はこのぶどうの木の産物を決して飲みません。」 マタイの福音書26章29節 マルコの福音書14章25節 

 

今朝の礼拝ではマタイの福音書25章を朗読しましたが、最近この箇所が気になっていたので、少し調べてみました。

 

これは、主イエスが、最後の晩餐と言われている、過ぎ越しの食事を12弟子とされたときに語られたことばです。

 

今までは、ぼんやりと、イエス様はこれから死なれるし、地上で弟子たちとぶどう酒を飲みかわすこともないだろうけど、天国でも飲まないのかなあ。くらいに考えていただけでした。

 

しかし、絶対にそれだけではないはずです。

 

このぶどうの木の産物を食さない、飲まない、というのは、ナジル人が誓願を立てるときに決められた主からの規約で、民数記6章に詳しく書かれています。(1~4節)

また、5節では、「彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。」とあります。

 

ナジル人で、髪の毛を伸ばしていると言えば、サムソンがすぐ思い浮かびます。

でも、サムソンが特別聖い生活をして、誓願を立てているような記事はないです。ぶどう酒を飲まないようにしたのは、サムソンの母マノアです。(士師記13章4節)

 

ただサムソンは、「神に献げられたナジル人」でした。(7節)

 

「ナジル人」を辞書で見ると、「聖別する」「分離する」という意味のヘブル語動詞「ナーザル」からでたことばで、「ささげられた者」、「聖別された者」という意味です。

 

ちなみに、サムエルの母ハンナも、誓願を立てていて、生まれた男の子の頭にはかみそりを当てない、と誓っています。(Ⅰサムエル記1章11節)だから、ことあと、祭司エリが「いつまで酔っているのか。」とハンナに問いかけますが、もちろんハンナはぶどう酒は断っていたのです。

 

それで、サムエルもナジル人であったかは、私が読んでいる聖書には書かれてありませんが、クムラン出土のサムエル記1:2には、「彼は永遠にナジル人となるであろう」ということばがあるそうです。

 

サムエルは、祭司となり、最初の預言者、最後の士師と呼ばれました。

 

ちなみに、エゼキエル書44章20,21節には、祭司に対して「頭を剃ってはならない。髪を長く伸ばしすぎてもいけない。頭の毛はきちんと切りそろえなければならない。祭司はだれでも、内庭に入るとき、ぶどう酒を飲んではならない。」とあります。

 

また、辞書で「ぶどう」を調べると、なんとヘブル語の「ぶどう」は8種類もあるのです。

「ゲフェン」は栽培されたぶどう。

「ソーレーカー」は良いぶどうの木。

「ぺラフ」花、未熟な房。

「エーナーブ」ぶどうの果実。

「ボーセール」未熟な果実。

「ベウシーム」野のぶどう。

「エシュコール」熟した実の房。

そして、「ナージール」手入れをしないぶどう。

 

この「ナージール」がナジル人と関連があるかはわかりません。

 

ただ、人の手が入っていない、純粋で野生のぶどうの木という印象をうけます。

ちなみに、「ソーレーカー」は創世記49章11節にあります。

 

調べると色々わかってきましたが、結局主イエスは、汚れのないささげものとして、聖別され、特別な祭司、大祭司となられて、かの日までぶどうの木の産物を口にすることなく、時が満ちるそのときに備えておられるのか、と憶測します。

 

主イエスがなされた最初の奇跡も、水をぶどう酒にしたものでした。

 

私たち、主の教え、戒めを保つ聖徒たちは、かの日を迎え、主イエスと、12弟子たち、多くの信仰の先輩たちとともに、神の国の食卓につき、ぶどうの木の産物をいただくときがくることを、待ちわびます。

 

うちのお義父さんが育てているぶどうの木。たくさん実ってきました。ボーセール。

 

ダンナが何年か前に植えたいちじく。まだ去年1粒食べただけです。

たぶん、5年は経っているかし、今年はもう少し食べられるかな。

主の日はまだ先ですね。