大阪平野中心部から北約20km,十数km四方の範囲に所在する銀銅鉱石の採掘から製錬を行った遺跡。平安時代末期に採掘が開始され,昭和48年(1973)の閉山までの間,採掘の場所や規模及び主体者を変えながらも,ほぼ継続的に銀・銅の採掘されました。

  多田銀銅山 悠久の館  兵庫県川辺郡猪名川町銀山  悠久の館周辺に数台の駐車 入館・駐車場無料

多田銀銅山悠久の館は、多田銀銅山遺跡の中でも特に重要であると認められた銀山地区(旧銀山町)の歴史を中心に紹介する施設です。館内の展示スペースには多田銀銅山にまつわる絵図や古文書、また鉱石や鉱山道具などの資料を展示しています。

悠久の館前には、悠久広場(堀家精錬所跡)が 明治28年に、島根県の鉱業家で「鉱山王」と呼ばれた堀藤十郎が採掘権を得て銀・銅・鉛の生産をはじめました。明治39年、生産規模を拡大するために、選鉱機械や洋式製錬所など当時の最新設備を設置する等の近代化を図りましたが、明治40年秋にはじまった銀・銅の価格暴落によって、機械選鉱場は使用されることなく休業に至りました。

悠久の館」を出て多田銀銅山へ歩いて行くと、「多田銀銅山代官所跡」があります。銀銅がたくさん採れた1662(寛文2)年には、ここに代官所を設置し、明治初期までの約200年間、多田銀銅山の管理する役所として機能していました。建物は、廃藩置県の際取り壊され、その門は銀山広芝邸の門として移設されています。

もう少し歩くと、右手に金山彦神社が見えてきました。

何だか金山彦神社は「鉱山の神様」として祀られているそうですが、自然豊かな森の中の神社は、どこか趣があり、大変神秘的な雰囲気がしますね~。

しばらく進むと、青木間歩に到着です。昭和38年、日本鉱業が試掘のために削岩機を使って掘った坑道です。周囲に植物の「アオキ」が茂っていたことから、その名前が付いたとされています。平成12年に整備され、唯一、体験入坑できるようになりました。全長52m、大人が2人並んで歩ける程の広さです。

夏場に入ると中はひんやりしていると思います、12度くらいで夏の暑い時には大変気持ち良いでしょうね~。奥に向かって進みながら、じっくりと天井の壁を見渡すと、鉱脈を見つけることができます。

当時の削られた跡を見ながら、ゴツゴツした岩や地下水で湿った表面を見ると、昔の採掘していた様子が想像できそうです。

青木間歩」の外に出ると、森に囲まれたのどかな景色が広がります。少し上に行くと「手掘の旧坑道ん跡」へ

手掘りで掘ったのか「ノミ」や「タガネ」などを使用したのでしょうね。

多田銀銅山は、川辺郡猪名川町を中心に箕面・池田・宝塚・川西・豊能・能勢にまたがる東西20㌔、南北25㌔の広大な鉱山地帯です。この鉱脈にそって、約2,000の間歩(まぶ=坑道)がありました。東大寺の大仏建立(749年)の際に使用された銅の一部は、多田銀銅山の間歩から産出したものだと伝えられています。寛文元年(1661)には幕府の直山(じきやま)となり,銀山地区に代官所と4つの番所が置かれ,鉱山の管理が行われた。寛文4年(1664)には銀3600貫目銅75万斤を産出し,「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいを見せた。また,大坂などの都市に近接する鉱山として最先端の製錬技術が採用され

  「台所間歩」

秀吉時代に開坑された間歩で、銀・銅が豊富に採掘され、大坂城の台所(財政)を賄うほどだったことから「台所間歩」という名がついたということです。豊臣秀吉が晩年、一子秀頼の将来を案じ、四億五千万両を分散埋蔵したと言い伝えられており、まさに、銀山は「黄金伝説の郷」でもあります。

 「瓢箪(ひようたん)間歩」

秀吉の採掘時期(天正〜慶長期)の代表的な間歩です。秀吉の馬印の千成瓢箪を間歩の入口に立てることを許されたことから、「瓢箪間歩」と呼ばれるようになったということです。 伝承では、秀吉が馬上のままこの間歩に入ったとも言われています

豊臣秀吉ゆかりのこの鉱山には、なんと4億5000万両黄金が眠るという“秀吉埋蔵金伝説”が!その真相は?。

   ~次回を お楽しみに では またね~