12月24日 クリスマスでも なーんにも できない退院日。学校は既に冬休みになってたので

次男がお出迎え。荷物を持ってくれ 汚れ物を出し 次回の入院に備えて鞄を準備をして 2Fに

持っていってくれました。夕食は妹が カレーを作ってくれ 自宅に帰る頃には日が落ちてた。

母に病院で会い 家に戻り 精神的に ほっと した私でしたが、思いの外 早くきた副作用には

少々凹んだ。まだ投与から 2日目。前回の 2日目は退院して明日京都に行くといってた頃だ。

なのに今回は吐き気が治まらず、しびれはもちろん 倦怠感もあった。動きたくない、体の

置き場が無いくらい座ってることさえ 辛い。明日以降 どうなるのか……寝込んでしまいそう

で 長男はまだ帰ってこなかったし、次男は部活に行く。送り出す時はちょっと頑張って一人に

なったら考えようによっては 誰もいないから 頑張らなくても いいのか、と思考を変換。

でも でも 辛いんだ。作ってくれたカレーもほとんど食べられなかったし 一緒に食事してる

次男にも気を使わせてしまった。不安がらせてしまった事が自分で嫌だった。

主人が仕事から帰ってきて私にかけた言葉は " おかえり " だった。ちなみに入院するときは

長男が一緒で 妹が病院に送ってくれたけど そのときは " いってらっしゃい " だった。

確かに 間違っては いない。

いってらっしゃい、おかえりなさい。きれいな言葉で好きな言葉だけど 抗がん剤で入退院する

私には そぐわない言葉に思えてしまって、主人の送迎を拒否してる私だったから、勝手といえば

勝手すぎるけど 関係も今ほどではなかったのに もっと 別の言葉がなかったか……

頑張れとか そんなんじゃなくて 体調をいたわってくれるような そんな言葉が欲しかった。

まるで仕事に送り出すような 挨拶をされ いつも違和感を感じてた。主人には主人の考えが

あって あまり重くならないよう 普段通りと思ったかもしれないけど なんだか そこからも

私達は食い違ってた。私は手術を前に 主人から置き去りにした あのときから、食事も

とれなくなり 気力のない私を母が心配し 思案の末 妹に連絡した。 駆けつけた妹は

私を抱きしめ  "お姉ちゃんが かわいそう  "

そう言ってひとしきり泣いたあと" 義兄さんには 任せられん、お姉ちゃんの事は 私がする !"

と言って 術後の付き添いも 病院の送迎も 助けてくれました。主人からすれば 自分が

したかったことを妹がしてしまう、と とらえたかもしれません。でも妹は でしゃばる事なく

必ず主人に声かけをして行動してくれた。私は主人を避けていた。主人を避けるにはそうなる

原因を自ら作った主人がいたのです。誰でも間違いは ある。人の罪を許せないほど 私は善人

でもないし 完璧でもない。あの頃を修復することは 主人が自分の過ちを認め 改善する

しかなかったのに それさえもしなかった。術後の退院を前に自宅で過ごすことを心配して

三者で懇談の場を作ってくださった緩和の先生との面談。あの精神状態で 母もいない家に

戻すことを心配したための面談でした。その面談さえも実兄からの電話を優先した主人。

その話の内容は 私がどんな状態なのかと言うこと。冷静に考えて その話を今すべきかどうか

判断できなかったのか?30分も遅れて始まった面談でした。自分にとっての大切な者の

判断ができなかった主人は 兄との会話を優先したのです。そのくせ 兄夫婦は 1度も 今でも

声掛けひとつ無いし見舞いにも来なかった。(来てほしいとも思わないけどムカムカ)

三者で面談した時 主人が言った事は 現実を受け止めらなかった  でした。既に 癌 と言われ

1ヶ月以上が経過し 手術も終えたのに  です。先生からは ご主人も協力と御努力をしてください、

マイナスからのスタートですが 奥さまを支えてください。一緒に闘わないと この病状を

乗り切る事は 大変になります。そう言われました。  が…………


2回目の抗がん剤の退院後 入浴の許可が出て 久しぶりの湯船は温かく心地よく でも ……

髪は既にサザエさんの波平さんだった。サリーちゃんパパから波平さんまでは あまりにも

早かった⤵⤵眉も抜け薄くなり まつげも 心なしか 無くなってた。身体中の毛が 無くなる。

腕に触れても感覚が違う。こんな短い体毛なのにあるとないとでは 大違い。父も白血病だった

から 副作用で毛が無くなる事はわかってたけど、 自分の身に起こることは 辛かった。

今どきのコマーシャルで" つるんっ "としてるって言うと 聞こえはいいけど、私からしたら

つるんって言うより ペチャって感じ。虫や蛙や とかげも嫌いだけど 幼い頃には触れた

こともある。調度 蛙のお腹って言えば 1番的確な表現かもしれない。あったときには邪魔で

不要に思えた 産毛や体毛もなくなってしまうと それがいかに大事な役目をしていたのか

と思ったのです。毛と言う毛は全てなくなりました。髪はもちろん眉もまつげも鼻も体毛も

したの毛もすねにある薄いものまで全て です。顔を洗うとき 1番 寂しかったかな~触れる

頬の感覚は産毛の抵抗も 無い。とーぜん 鏡も ある。

二重で 目が大きく黒目も大きい私の顔は 眉もなく まつげもなくなって 異様な様でした。

宇宙人 👽👽 それが 1番しっくりする感じ。今と変わってその頃は すっかり痩せてしまった体に

大きな目の顔の乗っかった私は 鏡が嫌いだった。他のかたのblogを読ませていただくと

ツケマしたり眉を描いておしゃれされてる方々も多くいらして 私は一体なにやってたんだろう

と今は思うのですが、抗がん剤しても いきる意味を見いだせないでいた その頃の私は なんとも

情けないのでした。抗がん剤後に必ず襲ってくる副作用には グッと耐えて子供達の前では

寝込むこともせず 耐えに耐えた。1度目に比べて 遥かに速いスピードでやって来た副作用。

その晩から出始めた筋肉痛や関節痛、吐き気でなく吐いてしまう。辛いのは 一時だけ と自分に

言い聞かせ 29日には母が退院なので なんとか心配させないよう 早く来るなら  早くこいこい!

副作用って思って過ごした日々でした。主人に 辛いこと話せなかった 私。動くから 大丈夫と思

っていた(であろう)主人。私を思いやる行動は ありませんでした。抗がん剤といえば 癌を殺す薬。

抗がん剤をすれば治る とでも思っていたであろう主人。考えて方が違っている私達でした。

私にとっての抗がん剤は癌を殺してくれる薬でも 体力も確実に奪っていく怖い薬なのに、

主人には伝わっていなかった。緩和の先生が入ってくださり その事も事前にお話しくださった

のに主人にとっての抗がん剤は 癌を治す魔法の薬と思ってたんだろうな~。

体をいたわる、 様子を聞いてくれる言葉も無く 子供が 2Fに上がり やっと横たわる事が

できた私に 大丈夫か と聞くこともありませんでした。家には 主人と 私と 2Fに寝に行った

次男しかいないのに です。声でもかけたら私が 噛みつくとでも思ったのでしょうか……

ほっといてくれ!とでも言うと思ったのでしょうか……残念ながら 噛みつく力も意欲も

言葉さえ発する事すら辛い私だったのに。母が用意してくれた ベットにさえ 行くことは

できず リビングで横になったまま 眠った退院日でした。主人?もちろん 2Fの自分のベット

に行って寝ましたよ。今でも 許すことが 難しい主人ですが、私を どう扱っていいのか

わからなかったのかも知れません、でも どうか まわりにいらっしゃる方は つかず 離れず

患者さんを見守ってほしいとも思います。 我が家の 恥ずかしい お話でした。