わだより1
内田樹の『最終講義』の要約するところを胸に、高校教員としての僕は仕事をしていこうとおもう。
数字を出さねばならぬという思いは内発的にはあってもよい。
(僕だって、それにふさわしい生徒に東大に入ってほしい)
だが、外から命令的に言われて本意でない進路指導や授業を行うというのは、誰のためにもならない。
数字上で信頼関係を取り結ぶというのは、保護者と学校経営者のためにはなっているかもしれない。
しかしそれは教員・生徒をともに商品化しているという点で現場の彼らを置き去りにしている。
学校における教育主体および学習主体は教員・生徒であって、保護者と経営者ではない。
それを忘れてしまったら、教員・生徒の人間性は考慮されなくなる。
「学校あっての教員であり、学校の経営が立ち行かなくなればお前は仕事ができないのだぞ」
そう言われるかもしれないけれど、学校の経営がこのままうまくいったとして、建学の精神もきっとこのまま蔑ろにされたままじゃないか、どうせ。
アイデアとしては、とりあえず全国の高校が「◯◯大学進学者数」の公表を一斉にやめること。
これで結構変わると思う。
うちはこれでやる!俺はこの授業を続ける!
でいいじゃないか。
これまで見てきた名授業は、そういう、人間的なメッセージにあふれた授業だった。
有償ボランティアとして僕が手助けを担当していた「多動性障害」の生徒も、そういう、腹の底から語る大人の言葉には耳を傾けていたのだ。
(彼は障害者ではなかった。どこかおかしい大人たちに異議申し立てをしていたのだと僕には思える)
腹の底から出るおのれの声と、生徒と生身のやり取りを通して立ち現れてくる「場」とに、誠実に向き合っていこうと決意を新たにしたのであった。
内田樹の『最終講義』の要約するところを胸に、高校教員としての僕は仕事をしていこうとおもう。
数字を出さねばならぬという思いは内発的にはあってもよい。
(僕だって、それにふさわしい生徒に東大に入ってほしい)
だが、外から命令的に言われて本意でない進路指導や授業を行うというのは、誰のためにもならない。
数字上で信頼関係を取り結ぶというのは、保護者と学校経営者のためにはなっているかもしれない。
しかしそれは教員・生徒をともに商品化しているという点で現場の彼らを置き去りにしている。
学校における教育主体および学習主体は教員・生徒であって、保護者と経営者ではない。
それを忘れてしまったら、教員・生徒の人間性は考慮されなくなる。
「学校あっての教員であり、学校の経営が立ち行かなくなればお前は仕事ができないのだぞ」
そう言われるかもしれないけれど、学校の経営がこのままうまくいったとして、建学の精神もきっとこのまま蔑ろにされたままじゃないか、どうせ。
アイデアとしては、とりあえず全国の高校が「◯◯大学進学者数」の公表を一斉にやめること。
これで結構変わると思う。
うちはこれでやる!俺はこの授業を続ける!
でいいじゃないか。
これまで見てきた名授業は、そういう、人間的なメッセージにあふれた授業だった。
有償ボランティアとして僕が手助けを担当していた「多動性障害」の生徒も、そういう、腹の底から語る大人の言葉には耳を傾けていたのだ。
(彼は障害者ではなかった。どこかおかしい大人たちに異議申し立てをしていたのだと僕には思える)
腹の底から出るおのれの声と、生徒と生身のやり取りを通して立ち現れてくる「場」とに、誠実に向き合っていこうと決意を新たにしたのであった。