どこで聞いたか覚えたかもう忘れてしまったのですが、
生理痛には鎮痛剤を飲めば良いと知ってから、
家にある鎮痛剤を飲んでは、貧血だから休むと言って部屋で横になっていました。
残念ながら、家族に生理痛が辛いと相談することはできませんでした。
家族だからこそ恥ずかしくて相談できないというのが実情でしょう。
恥じらいが事情になるかはわからないけど
「生理を話題にしてはいけない」
「自分の体について知ること話すことは恥ずかしいこと」
なんて誰かに教わったわけではありません。
だから、話題にしても良かったのかもしれないし、恥ずかしく思う必要もなかったのかもしれません。
だけど、話題にしずらいし、恥じらいを感じていたのが、これまでの経験です。
友達の間でそういった話になれば、生理という単語を使わずに「あれ」や「女の子の日」という言葉を用いたこともありました。
そういえば、家族が生理に悩まされている姿を家で見かけたことはあまりありません。
毎月、体も心も繊細になっている自分は居ないかのように、何事も起きていないような顔で過ごします。
電車の中で貧血になってしまっても、少し休んで何事もなかったかのようにその後を過ごしているのです。
何もないかのように過ごす
何もないかのように
それがここにある態度なのかもしれません
体に不調があるとき、頭は回らないし、予定していたスケジュールをこなすことが難しい事ってありますよね。
まさに、そのような状況が月に一度、一週間程度訪れます。身体的、精神的に敏感になってしまう苦労がそれぞれにあります。また、定期的な痛みや苦労という側面と合わせて、生理は人生に関わることでもあると思います。妊娠や出産を経験する人、それらを想定しながら人生を歩む人もいます。生理は、そのような人生を歩むために踏まえなければいけない段階、準備の1つでもあります。
改めて、自分の体で起こることを見つめてみれば、大切に向き合うべきことなんだと気づけます。
それなのに、人生に関わる体の仕組みと、それにまつわる繊細な変化に対して、大切に思う気持ちよりも恥じらいや何もない態度でいることがなぜ可能となってしまうのでしょう。
私が何事もないようにしている自分の態度に疑問を持ち始めたのは、欧米文化への関心が高かったことも手伝っています。ここでは深く掘り下げませんが、好きで触れていた美術は性を扱ったものがありますし、その流れでジェンダーやフェミニズムに関心を持っていた私からしたら当然行き着く、自分の態度への疑問だったと思います。
特に、自分は恥じらいが優先して性に関して積極的な会話を好まなかった人間ですので、余計に関心事と自分の日常と実践に大きな隔たりを感じました。ですが、自分の体に関心を持つことが恥ずかしいことではない、口にして良いことを示してくれる文化に触れ、徐々に自分の日常と実践も変化しました。
もちろん、いちいち自分の体調を周囲にアピールする必要はないかもしれなくて、定期的に訪れるものだから気にしていられないという気持ちもあります。ですが、何事もない態度が主となっていけば、自分の体の危険なサインを逃すことにも繋がりかねません。
また、話をすることで共感し、自分だけじゃないことに安心を覚え、解決策や今後のためになる情報を交換できることだってあります。
私は周囲の人と積極的な会話や情報収集したことで、自分のライフスタイルに合うケアと方法を選べるようになりました。また、友人の経験談は自分の行動を見つめ直すきっかけになりましたし、より友人を理解することにも繋がったと思います。
それぞれの人生とライフスタイルがあります。そのため、何かを強くおすすめすることも断言することもできませんが、私の心情の変化や日常での実践をお伝えすることで、多くの人により素敵な選択が増えたらいいなと思っています。
#NoBagForMe