まだ何かを手放せないでいるのか、本当にそう思っているのかは自分でもわからないことですが、料理の実験と題して様々なレシピに挑戦しているのです。

 一度何かにハマってしまうと、満足するまで突き詰めたくなる性格らしく、唐揚げの実験は、3日間行いました。材料と調味料を変えて、衣と味の変化を楽しみました。その後は、ペペロンチーノです。ペペロンチーノは2日間の実験で終わりました。ペペロンチーノのレシピを応用して、トマトとバジルを使ったものも作りました。そして、ついにお菓子を作ることに手を出したのです。まずは、スコーンから初め、その次はティラミスです。ティラミスはやはり自分で作るべきものではないという個人的な実験結果が出たので、一度きりになっています。そして、ようやくクッキーの実験を始めたところなのです。

 料理の味の構成や、工程を知っていくと、何気なく食べていた唐揚げという存在や概念を体系的に理解できるようになりました。料理の実験を始めたばかりの私が意味のわからない持論を展開していますが、唐揚げ1つ取ってみても、自分の世界は広がるし、そこに最大の喜びを感じているということなんです。

 楽しいと思う気持ちを感じつつも、家での自炊生活を続けざるを得ない現在の状況では、料理に疲れることも適当にあります。そんな時は便利な出前なんかを使うこともできるかもしれませんが、自分は便利さから出前ばかり頼み、太ってしまうんじゃないかと恐れているのです。なので、自分を律してる気分で便利なアプリや出前にはあまり手をつけらません。と言いながらも、料理を作りたくない時は作りませんし、ハンバーガーとポテトを食べることもあります。

 話は少しそれますが、幼い頃、お母さんは、「今日は何を食べたい?」とよく私に聞いてきました。適当に食べたいものをリクエストしていたときもあったけど、特にリクエストのないときには「なんでもいい〜」と答えていました。毎日の献立に少しの大変さを感じるとき、あの時の「なんでもいい〜」がお母さんを苦労させていたんじゃないかとふと思うのです。

 さらに、料理はいくつもの工程を重ねて作られるわけです。家族分の料理って、食材がすぐ終わりそうだな、野菜を切るだけでキッチンがいっぱいになりそうだ、フライパンだって4人分なら重いんだろな、実際に家族4人分を作ったことのない私ではこれくらいの想像しかできないのですが、とにかく料理に関する苦労を少しだけ知ることとなったのです。そんな今は、よく耳にする「母は偉大」の意味を実感していると同時に、この言葉の用法をもう一度、自分で見直そうなんて思っています。ただただ、本当にありがとう。と、これからは積極的に手伝います。今はそんな言葉が出てきます。


 少し話を戻しまして、材料や色や形を組み合わせる楽しさ、気分を晴らす作業、でも毎日の生活の中では献立を考える大変さや単純に気分が乗らないときもある料理って、生活の一部でしかないんだなと私は感じます。ですが、その時々の自分の気分に寄り添った形で料理を取り入れられると、少し豊かな時間を過ごせるのかもしれません。昨日、クッキーを焼いたのは、単純にクッキーが好きだからと、映画のお供にしようと思ったのと、固い質感を自分で作り出したい気分になったからです。今日、昼食をアボカドで済ませようと思ったのは、あまり食べたい気分にならないけどアボカドの口当たりとオイルの味なら味わいたいと思ったからです。

 たったそれだけのことだけど、わざわざこうして言葉にしておきたいのは、以前は料理に抵抗があったからです。料理をすることに度々見出される家庭的な魅力?を私自身の価値と結びつけて見られたくないために、料理から距離を置いていました。

 しかし、料理は、私にとって生活の一部でしかないと気づいたからこそ、自分の生活を豊かにできるものでもあることを知りました。少しばかり人の目を気にしすぎる私にとっては、単純な自分の喜びを知ることは簡単ではないけど、これからも自分にとっての豊かな時間を大切にしていきたいです。