黒部ダム~松本城
僕の移動式倉庫(別名/車)の裏の扉を開けると・・・・
なんもねぇw
いっつも段ボールが数個しまってあるはずなのに・・・なんもねぇww
もう受付の女の人こっち見てる
う~ん 黙って帰るのもアレなんで一言
『あのw荷物忘れたんで・・・チョメチョメしてきていいすか?』
「あ、和久井さん!!印字サービスできてますよ~」←僕の話聞いてないw
もう伝票少なくなってたから頼んではあったが、こんなに頼んだか?w
そんなに送るもんないしw3年分くらいあるんじゃねぇかww
そもそも僕、和久井が送りたかった荷物どこ行った???
って考えたけど・・・週末に移動式倉庫で遊びに出掛けたんだ!!
だから全て降ろしたんだ!!
そんな旅日記の始まりですw
(調べながら書いてたんで、ついでに以下ウィキ乱用ですwwwwwwwwwww)
ここで降りたw
地方によって川の雰囲気って全然違う
大好き発見wwww昔は角目4灯が好きだったけど今は丸目。んでロールーフ

60系(1980年 - 1989年)
1980年、ステーションワゴン、55型の後継車種として登場。
ガソリンエンジンは55型から変わらず6気筒・4.2Lの2F型であったが、新たに6気筒・4.0Lの2H型(国内は1982年から)と4気筒・3.4Lの3B型の2種のディーゼルエンジンが設定される。ステーションワゴンのラインナップに初めてディーゼルエンジンが加わった。
消防車仕様は山間部を中心に配備されており、現在でも見ることができる。
- 1980年、国内モデルのバックドアは観音開き(形式記号 C、カタログ特徴記号 VKC)のみ。グレードはビニールシートとセミトリムのスタンダード(STD)と、ファブリックシートとフルトリムの「Gパッケージ」が選べた。
- 1981年10月
- 日本国外のみであった上下開き式バックドア(型式記号 M、カタログ特徴記号 VLS)を国内にも設定。
- パワーステアリングを国内にも設定。
- ソフトライドスプリングを国内にも採用。
- 1982年10月
- 国内モデルにも6気筒・4000ccの2H型ディーゼルエンジンを搭載したバン4000GX(HJ60V-MMZ ハイルーフのみ)が追加された。
- ディーゼルモデルに5速M/Tを新設。
- ディーゼルモデルにハイルーフを追加。
- GXグレードを国内にもディーゼルモデルに新設。
- 電動リモコンフェンダーミラーをGXに採用(国内)。
- 1984年11月、70系のデビューに合わせマイナーチェンジ。
- ガソリンエンジンを4000ccの3F型に変更。ショートストローク化とフライホイールの軽量化など高回転寄りの設定となったことと排ガス対策のため、力強さは失われた。
- ガソリン車にも5速M/Tを設定。
- リアバンパーを分割し、ステップを新設。
- 1985年10月
- ディーゼルにターボモデルを追加。国内では最上級グレードのバン4000VX(HJ61V-MMZX)のみに限られた。2H型を直噴化した12H-T型を搭載した。このモデルにはデフロックがオプションで設定された。
- 12H-T、2Hモデルに4速A/Tを搭載した。
- サスペンションシートを設定(フロア形状変更)。
- 1986年8月
- 3B型エンジン廃止。
- VXのトリムを変更。
- 1987年8月、マイナーチェンジ。
- ヘッドランプを角型4灯に変更。
- インストゥルメントパネルを変更と同時にオーディオスペースを2DIN化。
- 国内にもワイドタイヤ(31X10.50R15 LT)とバンVXにオーバーフェンダーを設定。これらの変更は当時開発が進んでいた80への買い替えをスムーズに促すためのデザインとされた。
- 1988年8月、ガソリンエンジンの3F型を電子制御化した3F-E型を搭載した、70ワゴンに続く乗用車登録モデルとなる、ワゴン4000VX(FJ62G-PEZE)を追加。
- 1990年1月生産終了。
- 当初80系への切り替えは1989年の10月を予定していたが、新機構満載の80系はトヨタとアラコにとって共に未経験の部分が多く、その解決に多くの時間を要すこととなり、その後11月に延期されるも生産立ち上がりは遅れに遅れ、最終的には年明けの1990年1月にずれ込んだ。
そのため60系は同月まで生産が続けられることになった。
トローリーバスに乗り・・・
トロリーバス (trolley bus) とは、道路上に張られた架線から取った電気を動力として走るバスを指す。略してトロバスとも呼ばれる。
外観も操縦法もバスに近いが、日本の法令上は無軌条電車(むきじょうでんしゃ)とされ鉄道として扱われている。かつては無軌道電車(むきどうでんしゃ)と呼ばれていたが、「無軌道」には「常軌を逸した」という意味もあり悪い印象を与えるとして「無軌条電車」に改められた。
階段200段ほど上り
いざ黒部ダム展望台へ

お~!!雑誌とかテレビで見たまんまw
黒部ダム(くろべダム)は、富山県中新川郡立山町、黒部川水系黒部川に建設されたダムである。ダムに貯えられた水を利用している発電所が黒部川第四発電所(黒四)であることから、黒四ダム(くろよんダム)と呼ばれることもある。
高けぇとこ怖ェ~w水スゲェ~wズームレンズスゲェ~w
怖ェので少しづつ降りていくw
概要[編集]
日本を代表するダムの1つであり、富山県東部の黒部川上流に建設されたアーチ式コンクリートダム。発電に利用する水を確保することを主目的として関西電力によって建設された。ダムの高さ(堤高)は186mで日本一を誇り、現在でも破られていない。富山県で最も高い構築物でもある。総貯水容量は約2億tで北陸地方屈指の人造湖黒部湖(くろべこ)を形成する。総工費は建設当時の費用で513億円。これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1,000万人を超え、工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる労働災害による殉職者は171人にも及び、いかにダム建設工事が苦難を極めたのかがうかがえる。
前述のように「黒四ダム」の別称もあるが、関西電力は公式サイトなどでも「黒部ダム」としている[1]。また、日本ダム協会によれば、「黒四ダム」の名は仮称として用いられ、後に正式名称が「黒部ダム」と決められたとしている[2]。完成時には「黒四ダム」と呼ばれることが多かったが、最近では一般に「黒部ダム」と呼ばれるようになっている。また、かつては図鑑などで「黒部第四ダム」と書かれていたこともある。
ダムの真上まで来た
こっちのほうが怖ェ~w
虹の色数[編集]
日本では、虹の色の数は一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と言われるが、アメリカやイギリスでは一般的に、赤、オレンジ、黄、緑、青、紫の6色、ドイツでは赤、黄、緑、青、紫の5色と認識されている。多くの日本人が虹の色を7色と考えるのは、ニュートンの虹の研究に由来する学校教育によるものである。
ニュートンは、赤黄緑青紫の5色と考えられていた虹の基本色に、柑橘類のオレンジの橙色と、植物染料インディゴの藍色を加えて7色とした。彼は虹の色と色の間は無限に変化していることを知っていたが、それにもかかわらず、虹を7色としたのは、当時、7が神聖な数と考えられていたからである。音楽のオクターブもドレミファソラシの7音からなる。ニュートンは美しい虹も7つの基本の色からできているとしたのである。
ニュートンが虹を7色と決めたからといって、イギリス社会一般で虹の色が7色だと統一されているわけではない。虹の色を何色とするかは、地域や民族・時代により大きく異なる。日本でも、古くは五色、沖縄地方では二色(赤、黒または赤、青)とされていた。なお現代でも、かつての沖縄のように明、暗の2色として捉える民族は多い。
インドネシア、フローレンス島地方では、虹の色は、赤地に黄・緑・青の縞模様(色の順番としては、赤・黄・赤・緑・赤・青・赤となる)とするが、この例のようにスペクトルとして光学的に定められた概念とは異なった順序で虹の色が認識されることも多い。
虹の色が何色に見えるのかは、科学の問題ではなく、文化の問題である。何色に見えるかではなく、何色と見るかということである
虹のことより・・・下が見えて怖ェ~www
186mもある!!!!!!!!!!!!!!怖エェェェェ~w
cmにすれば僕、和久井の身長と一緒
うそぉ~ 怖エェ~w
そーいえば大阪もちょっと前行ったなぁ 次回の旅日記は【大阪編】予定としますw
| 所在地 | 富山県中新川郡立山町芦峅寺 |
|---|---|
| 位置 | 北緯36度33分59秒 東経137度39分44秒 |
| 河川 | 黒部川水系黒部川 |
| ダム湖 | 黒部湖(ダム湖百選) |
| ダム諸元 | |
| ダム型式 | アーチ式コンクリートダム |
| 堤高 | 186.0 m |
| 堤頂長 | 492.0 m |
| 堤体積 | 1,582,000 m³ |
| 流域面積 | 188.5 km² |
| 湛水面積 | 349.0 ha |
| 総貯水容量 | 199,285,000 m³ |
| 有効貯水容量 | 148,843,000 m³ |
| 利用目的 | 水力発電 |
| 事業主体 | 関西電力 |
| 電気事業者 | 関西電力 |
| 発電所名 (認可出力) |
黒部川第四発電所 (335,000kW) |
| 施工業者 | 間組・鹿島建設・熊谷組・ 大成建設・佐藤工業 |
| 着工年/竣工年 | 1956年/1963年 |
| 備考 | 堤高: 日本の全ダム中1位 堤頂長: 日本のアーチ式ダム中1位 堤体積: 日本のアーチ式ダム中1位 総貯水容量: 日本のアーチ式ダム中4位 中部山岳国立公園 |
黒部ダム ありがとうございました!!
帰り際に食べた《ダムカレー》という安易なネーミングカレーw
食べれば決壊という《う~ん・・・なカレー》w
松本城にも寄った
長野県松本市にあった城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)[1]とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。
所在地[編集]
- 長野県松本市丸の内4-1
典型的な平城。本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。
天守[編集]
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は、2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴のひとつとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。
ナイスカッポー!!
ナイスカッポー[編集]
和久井がその日一番のナイスカップルを背後から撮影した写真。そのうち怒られるであろう・・・その覚悟の上でシャッターを切った写真。
内心は、別に「どうでもいい」って思ってる。
以上!!!!