今回の妄想暴走シリーズはこの記事で終わり。
ここに辿り着くまでやたら長かった。うんうん。
信長が清須城に入った当時、
既に南櫓・北櫓と称される、御殿的な要素を持つ
構造物が存在していたと自分は考える。
清須入城後、家督継承争いの延長ともなる
一門の利害対立に勝利し尾張国内を平定。
上洛して将軍に拝謁し、
実質的に尾張国主の御墨付きを得る。
これによって
今川氏による尾張南東部、
庄内川以東への旧領回復という形の侵攻に対し
対抗する大義名分を得たともいえる。
桶狭間の合戦で今川義元を討ち果たした事で
今川氏による尾張侵攻は終焉。三河の松平氏が独立。
この松平氏と領域確定及び同盟を締結する事で
信長は美濃侵攻に本格的に着手するため
居城を清須城から小牧山に移転、小牧山城の構築となる。
小牧山城の構築は1563年との事だが
この前年から信長は尾張北東部・犬山城を拠点とする
織田信清と抗争し、1564年にはこれを放逐。
この信清との確執だが
信長が小牧山に拠点を移す時、
『本宮山に拠点を移す』というブラフを以って
小牧山への移転と群臣の集住を果たした
という話が伝わる。
本宮山は尾張二ノ宮・大縣神社の御神体山であり
大縣神社近隣には
大和守系織田氏の始祖・織田久長が築城したと伝わる
楽田城が存在し、当時この楽田城には
祭祀を主目的とした殿守建築とも見做される
高層の構造物があったと考えられる。
個人的には
この信長の本宮山への移転表明は
ブラフでは無く『本気』だったのではなかろうか。
まぁ、尾張二ノ宮・大縣神社の
御神体山である本宮山そのものの城塞化は難しいと思うが
その北西に連なる山を城塞化しようと考えたのかもしれない。
その形態は後の岐阜城に見られる
『銀閣と中尾城』を模倣した形態のように考える。
しかもこの本宮山北西の山を拠点に出来れば
尾張国内の神社絡みの商業圏を完全掌握する事にもなる。
既に弾正忠家は
勝幡城によって津島社を
古渡城によって三ノ宮・熱田社を
清須城によって国府宮 ~ 一ノ宮・真清田神社
という具合に勢力を構築しており
弾正忠家にとって、残る主題は
尾張北東部の
二ノ宮・大縣神社とその対となる田縣神社に絡む商業圏や
その近隣にい位置する
尾張富士に絡む浅間信仰に伴った山岳修験の持つ情報網、
さらにその麓の羽黒に拠点を構える
旧来からの有力な土着領主・梶原氏の存在。
この本宮山付近を押さえれば
木曽川以南の陸上ルートで
美濃国の東部・多治見方面に進出出来るという
イロイロと込み入った要素のある立地である。
ただしこの本宮山近隣に拠点を移すとなれば
犬山城を拠点とする織田信清の権益を侵す事に
繋がる可能性が高い。
信清は造反した際に楽田城を襲い、
これを領有してもいる事から、
尾張北東部の商業圏の掌握に動いたように思える。
まぁ、結局は
織田信清の造反によって
本宮山への移転構想は頓挫したとも思えるが
その構想にあった城郭の姿は
美濃国の併呑後に岐阜城で具現化したのではなかろうか。
一方、本宮山に代わって
新たな拠点として構築された小牧山城に関しては
その立地からして居館建築の発展系、
更に松永久秀の多聞山城を意識した
極めて趣味の要素の強い城館であろう。
何にしても信長という人物は
独自性よりも『模倣からの大々的な改善・発展』という
なんだかんだで
旧来からの日本人の持つ職人気質的な
まかり間違うと
趣味に没頭し過ぎる傾向の御仁のように思える。
小牧山城のコンセプトは
『茶道・禅宗・国主としてのモニュメント・政庁』
といった感じであろうか。
要害性はそこまで重視されていないように感じるし、
そもそも信長の居館には要害性が感じられない。
弾正忠家は旧来から商業的な領主であるからして
京洛の商家や公卿を通じ
文化的素養はかなり高かったと考えられる。
特に信長の傅役を務めた平手政秀の教養は
かなりの代物であったと思われる。
いわゆる数寄者。
信長は幼少期から
こういった文化的素養の高い人物に囲まれていた、
接点を有していた、と考えると
小牧山城は当時の文化人の代表・松永久秀を意識した
数寄者・信長による対抗的な居館の様に思えてならない。
…本宮山への移転構想の頓挫から来る
八つ当たりな面もあったりして。
この小牧山城の持つ
『茶道・禅宗寺院建築・国主政庁・部将の集住』
というコンセプトと
本宮山の居城化構想~岐阜城の持つ
『銀閣と中尾城の模倣・京洛趣味・商業圏の掌握・部将の集住
・国主政庁・唐様趣味・織田氏の祭祀場』
といったコンセプトの要素を融合し、
更に南蛮趣味をも取り入れたものが
『安土城』という存在のように思える。
個人的に
信長は革命的な志向の持ち主ではなく
極めて保守的な伝統重視の志向・嗜好の持ち主であり、
また魔改造好きで職人気質な趣味人であろう。
魔改造好きで職人気質な趣味人の持つ
合理性重視の志向が
平屋御殿の重層化による
天主建築に繋がった可能性は高いとも思う。
寺院建築と武家御殿の融合とでも言い表そうかねぇ。
そうそう、1550~1560年頃の京都を描いた
洛中洛外図(上杉本)の陶版がネットで閲覧できるのは
とても有難い。
この洛中洛外図(上杉本)の右隻を眺めると
洛中に於いても
重層化した殿舎を持ち、
その上層階に高欄のある望楼を持つ、悲田寺・万寿寺、
重層の入母屋造りの等持寺といった寺院が目に付く。
洛外では
桧皮葺の八角屋根を持つ吉田社、
重層の入母屋造りの東福寺や建仁寺などが見られる。
右隻に描かれた武衛陣門前の
幼君と闘鶏の様子から見て
この幼君は武衛陣の居館に住む足利義輝と見る向きもある。
足利義輝は1546年に近江で元服・将軍就任、
1548年に管領・細川氏と和睦して帰洛。
が、1549年にはまたしても近江坂本に避難する。
この時の義輝の居館が
公方邸なのか武衛陣なのかは不明だが
義輝の父・義晴も健在なので
前将軍・義晴が公方邸に入り、
居住者のいない武衛陣を義輝の居館とした可能性はある。
左隻では
中央下部に
3代将軍・義満によって創建された
相国寺が描かれており
二階建てで上層部に高欄を持つ
相国寺・法堂と思しき建物が目に入る。
ただこの相国寺、1551年には
細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼亡してる。
左隻には雪化粧の金閣寺も描かれているが
よくよく見ると金箔が貼られてるのは最上階のみであり、
現状の再建された金閣とは様相を異にする。
左隻は中心に細川邸が描かれ、
その手前に細川氏の被官である三好筑前(三好長慶)邸、
更に手前に公方邸と相国寺が描かれている。
因みに三好長慶は1560年に修理大夫に任じられている。
左隻では主に
武家様式の居館・庭園が目に付き、
これら武家の邸宅を眺めるに
当時の武家の居館は平屋の御殿建築が主流であり、
重層的な構造を持つ建築物は
元来、寺院の建築様式のように思われる。
この洛中洛外図(上杉本)は
管領・細川氏が幕政を仕切っていた
1548年~1549年の様相を表したモノのように思うが
実際にこの図会が製作された時期は
1548年~1565年ぐらいであろうか。
信長の築いた安土城というのは
洛中洛外図に表されている
京都の代表的な構造物を一つの城郭に凝縮した
『小京都』的な発想のように思える。
箱庭趣味が昂じた挙句、
その箱庭内に住み着いちゃったような。
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