先の記事で書いたように
末森城は当初から曲輪が複数構えられた
連郭式の城館と推定してるのだが
これは1540年頃に織田信秀が奪取した
三河・安祥城の構造を参考にしたものと思う。
本丸の北と西に曲輪を配した末森城
末森城古図
本丸の西と南に曲輪を配した安祥城
安祥城古図
そして双方とも台地の端に造成された
眺望の良い立地。
三河・安祥城では
都合5回、大きな合戦が繰り広げられており、
安祥城の要害性は立証済み。
安祥城の場合、
周囲の深田(腰位まで浸かる深い水田)の存在が
その要害性を高めてもいる。
尾張・三河域に限らず日本全国で
河川の下流域や氾濫原では
このような深田が明治期まで多く存在していた。
深田・湿地に囲まれた城として著名なのが
越後・長岡城であろう。
戊辰戦争での北越戦役では
長岡城を奪われた長岡藩の部隊が
城の近隣にある湿地帯・八丁沖を越えて攻め入る事で
長岡城の奪還に成功している。
こういった大規模な湿地・湿田・深田は
近代以降、その多くが干拓されているが
現代に於いても深田・湿田は存在してるし
宅地や商業・工業地となっていても
液状化や地盤沈下などを生じ易い土地である。
兎も角、織田信秀は
三河争奪戦での安祥城の持つ要害性を
自身の居城にも求めた結果、
末森城の築城となったように思われるし、
居城の要害性を必要とする状況に
追い込まれていたとも考えられる。
1549年、岡崎城の松平広忠が急逝すると
三河の領国化を企図する今川氏は
三河・安祥城を急襲。
この時点で
松平広忠の嫡子・竹千代は
織田信秀の下にあり、
三河の織田領国化を回避する為に
安祥城の攻略に今川氏が乗り出したもの。
結果、今川氏は安祥城を攻略し
城主・織田信広を生け捕り、
捕虜交換で
松平広忠の嫡子・竹千代の奪還に成功した事で
今川氏は三河西部~尾張南東部に進出。
この覇権争いが後年の『桶狭間の合戦』に繋がる。
尾張国内の連郭式城館として
犬山城も存在するのだが
こちらの場合、乾山の城塞と山麓の居館といったものであろう。
山上の曲輪には早い段階で
『二階建ての殿守』が
石垣上に構築されていた可能性があるとされる。
ただこの犬山城、慶長年間に
石川氏が入り『金山越し』と呼ばれる
美濃・兼山城からの移築・改修工事が行われたようで、
更に江戸時代の鳴瀬氏の入城によって
現在見られる望楼型天守を持つ城郭となった。
石川氏入城の際の『金山越し』によって
天守の改築がされた痕跡は無いのだが
城郭そのものの縄張りに関しては
小牧・長久手の合戦や関が原の合戦などで
1537年の築城当初の縄張りから
改変されていてもおかしくはない。
織田信長が小牧山に居城を移したのが1563年。
その前年から犬山城の織田信清との抗争が勃発しており
1564年に信長が犬山城を攻略。
そして犬山城には
1570年になって池田恒興が入城する。
案外、現在に伝わる犬山城の様相は
織田信清の放逐後~池田恒興の城主時代以前に構築された
織田信長による
小牧山城の模倣or発展型という可能性もある。
小牧山城も犬山城も
山麓から本丸への登城経路が直線で形成されており
本丸には天守台石垣が設けられているという共通項がある。
これに関して
小牧山城の場合、従来『間々観音(龍音寺)』が所在し、
犬山城に関しても
『針綱神社』が山頂から遷座している事から
双方ともに共通する直線通路は
寺社への参道を転用したものなのではなかろうか。
個人的に
小牧山城と犬山城は同時期に城郭の形を形成した
本城・支城という関係を持ち、
犬山城に関しては隣接する美濃国の斎藤方勢力への示威も兼ねた
城郭のように思われる。
(犬山城の対岸には斎藤氏に属した大沢氏の拠る鵜沼城がある。
伊木山城に関しては帰属先不明。)
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