えー、白肩の津に辿り着いた神武天皇一行。
ここで在地勢力との戦いになるのですがね、
この戦いに際し、『船を降りて』戦っとるのですよ。
この件からして神武天皇の氏族は
海戦・水上戦が不得手と思う訳でして
だからこそ『山間部の氏族』なんじゃなかろうか、と。
それと
この時点では『瀬戸内系氏族からの援助』が
受けられない状況なのでは。
だからこそ先の記事に出た
『サオネツヒコ』による案内を必要とした。
もはや『東征軍』と格好よく言える軍勢ではない気がすんのよ。
神武天皇の御名なんすけど『狭野尊』ってのもありましてね。
年少の頃の名乗りとされてますが
つまりは自勢力が極小だったのではとも思う訳でして。
そんで以って神武天皇の一行は現地勢力の
『ナガスネヒコ』の軍勢と戦って散々っぱら負ける。
この時の戦いの傷が原因となり
神武天皇の兄であるイツセノミコトが亡くなりもする。
『身近な親族が矢面に立つ戦』っつーのも
それだけ勢力が弱っちぃ事の証左では。
ここから先の記紀の記述は
神威を著し正統性の謳う為の脚色がてんこ盛りのように思う。
とりあえず端折って熊野到着に場面を転換するが
神武天皇一行が熊野に到着した際、
オオクマホノカと邂逅し、一行は皆『意識を失う』という。
思うにこれ『遭難・漂着』なんじゃねーのか?と。
別に畿内に拘らず東海方面へ向かう手もあるのに
この地から『本州の秘境・紀伊山地』を踏破してるんである。
『船の喪失』というのがあったんじゃねーかな。
そこからはもう『貴種流離譚』的な。
あと、熊野と言っても今の熊野市域じゃなくて
新宮市の熊野川河口付近かと思う。
熊野に着いた一行はアマテラス等の神威を得て
紀伊山地を北上するのだが
この『アマテラス等の神威』ってのは
在地の協力者と考える訳ですよ。
現地の支配者からすれば
神武天皇の一行は排外対象。
が、この現地支配者に不満を持つ存在からすれば
内部での利害関係を生じない『御輿』には持って来いの存在。
そういう現地の不満勢力を糾合しつつ、
吉野or宇陀に拠点を構えるに至ったと。
ルートとしては熊野川の北上、
上流域の『十津川』住民の協力を得て(八咫烏)、
分水嶺を越えて吉野方面へと向かったのではなかろうか。
これにより畿内の山岳部一帯の盟主となり、
平野部への進出となる。
そしてナガスネヒコを降すのだが
ここでナガスネヒコが奉じる『ニギハヤヒ』という神が出てくる。
神武天皇の祖、ニニギノミコト同様、
アマテラスから畿内の統治を委ねられたとする神。物部氏の祖。
個人的には
ナガスネヒコ側から神武天皇側に与した
物部氏等の現地勢力の
自己正当化の為に創り上げられた神様かと。
とりあえずこれで神武天皇が
近畿南部諸勢力を軍事的・祖霊信仰的に統合する勢力を築き上げ、
橿原宮にて践祚。
初代天皇、『始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)』となる。
が、
この『はつくにしらすすめらみこと』という御名を持つ天皇がもう一方。
それが第10代・崇神天皇。
これに関し
神武天皇=崇神天皇とする見方で
間の八代をすっ飛ばす見方もあるようだが
オイラとしては
熊野到達以降に関してが神武天皇以降の事跡と考える。
そして畿内に安定を齎し、外征を行うようになったのが
第10代・崇神天皇なのではなかろうか。
この崇神天皇の代にあの『吉備国』が帰属することになる。
この欠史八代とも称される神武天皇⇒崇神天皇に至るまでの
『綏靖天皇』から『開化天皇』にかけては確かに微妙ではある。
が、諸勢力の統合という要素では
血縁関係やら何やらの関連性構築という
後世の傘下に収まった氏族の
自己正当化の根拠を作る作業に於いて
重要な存在になっているようにも思われる。
これは祖霊信仰に由来した『宗教的な統合』であろう。
こういった宗教的統合と軍事的な制圧によって
第12代・景行天皇の頃には関東以西を
勢力圏・影響下に置いたものと思われる。
そして時代が下り、
第14代・仲哀天皇の頃に『三韓征伐』が出てくる。
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