日本の記紀神話、
さすがに完読できるほどの技能は有してないが、
記紀神話を題材にした諸本も数多くあるので
大体の流れってのは認識できてるとは思う。
んで、
この『豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)』ってのが
現在の日本の母体とも思うんだが
一体何処にあったんじゃろ、ってな事で
今現在も謎。
個人的には
日本国内の旧国名、『豊前・豊後』から推察するに
『豊』のクニ(大分県&福岡県東部)の
中津周辺なんじゃねーのかなぁと。
近隣には
日本三大八幡の筆頭、八幡宮の総社である
『宇佐八幡宮』ってのがあって
後代、『宇佐八幡宮神託事件』という
皇位を巡るいざこざが生じてもいる。
皇位に関して干渉出来る程の神威・社格を有してた訳で
それはそれは尋常でない。
この事件自体は当時の『神道と仏教の軋轢』やら
イロイロな事案が絡み合ったものと思うのだが
少なくとも『宇佐八幡宮の神託』が
大きな影響力を保持してた事の証左でもある。
あと、
中津市の北西、福岡県との県境を流れる
山国(ヤマクニ)川ってのがある。
上流域は『耶馬渓』と呼ばれる
有数の景勝地。
『耶馬渓』の名称は江戸時代の『頼山陽』によるものだが
この『山国川上流域』は旧来から『山国谷』と呼ばれてきた。
そしてこの『山国川』の名称自体も『山国谷』に由来する。
この『山国川』の水源となるのが『英彦山(ひこさん)』。
『天忍穂耳命(アメノオシホミミミコト)』を祭神とする
『英彦山神宮』が鎮座する。
『天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)』は
『邇邇芸命(ニニギノミコト)』の父親に当たる。
天孫降臨の流れを読むと
当初、豊葦原中国の統治を任せられたのは
『天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)』。
が、下界である『豊葦原中国』の混乱振りを見て
『イヤ、自分無理ッス』と断って、
息子の『邇邇芸命(ニニギノミコト)』に
『豊葦原中国』の統治を丸投げ。
そんな『天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)』の
降臨伝承のある『英彦山』なんである。
因みに『英彦山神宮』の神職は
南北朝期の皇室に連なる『高千穂』家。
なんだ、この苗字、と思う訳である。
この苗字を名乗ったのがいつ頃なのか
オイラには定かでないのだが、
その名乗りが許容されるナニカがあるのだろうとは思う。
そして思うに
『天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)』の
親に当たる『天照大御神(アマテラスオオミカミ)』の時に
天岩戸伝承から想像される統治権の失効。
その後の
『天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)』の
降臨伝承のある『英彦山』近辺は
統治回復の為の拠点であり
『ヤマ』と称されるクニがあったのではなかろうか、と。
それが『山国谷』の語源なんじゃないかな?
そして、『邇邇芸命(ニニギノミコト)』の
降臨伝承のある九州南部が
新たな『ヤマ』の中心地となったか、
分裂した一方の拠点となったように思う。
そして時代が下って
神武東征(畿内亡命・逃亡)⇒⇒畿内ヤマト王権
に至るような気がするのよな。
つまりは九州北部を領有してたものの
何らかの理由で南部へと追い詰められ、
挙句の果てに『東征』と称して畿内に逃亡、
畿内掌握以降の
失地回復と領域拡大(熊襲討伐等、ヤマトタケル伝承)、
という感じの様な気がすんのよ。
ただこの場合、『素戔嗚尊(スサノオノミコト)』の位置付けが
ややこしいことに。
外部同盟者ともなり得るし
内部の別派閥の領袖ともなり得る。
そして従来通り、統治権を争う親族としての、
『天照大御神(アマテラスオオミカミ)』の弟でも適合するが。
ま、『豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)』を
今の大分県中津市周辺と比定して妄想を膨らませてみるのも
なかなか面白い。
序に
日本の古名として
『豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)』を
掲げてみると
日本も『中国』になっちゃうってゆー。
『中国』という名称はイロイロと紛らわしい。
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