武蔵国に関してのgdgdな妄想。 | つれづれなるまゝに

つれづれなるまゝに

狂ひたるモノ・侘助

地図を開く。
あきる野市・乙津
を眺める。

『乙津』の北部方面に『養沢』の飛び地が多い。
なんじゃこりゃ、と。

ま、ぼーっと眺めただけでの判断じゃ
正確な所はワカランが、
『乙津』の区域が『養沢』方面に
拡大した印象が強い。

そして
乙津の中心集落が把握出来ない。

確かに『乙津』内の各地区に
地区名を冠した自治会館があるのだが
『乙津』の根本集落とでもいう存在を
見つけ出すのは難儀じゃな。

地域拡大によって『乙津自治会館』が
移動した可能性もある。
ま、現地の方に尋ねりゃすぐわかる事かもしれんが
そーいうのが苦手なオイラなんである。

と云うことで
国立歴史民俗博物館のサイトにある
データベース、
『旧高旧領取調帳』なるもので調べてみた。
どうやら『乙津村』は『龍珠院』周辺で問題無さそう。

『小宮村』の名と『原小宮村』の名前も
現・あきる野市域で確認。

そして分布してた『寺社領』もね。

うむうむ。

で、話は一気に変わって
もっと広域な話。

武蔵国の西部と云う視点に。

先日、地図を見て
『ありゃー』と思った事があるのよ。

令制国・武蔵国の成立があり、
それまで支配圏を行使してきた国造の勢力が低下する。
武蔵国の場合、
知々夫国・无邪志国・胸刺国の統合によって成立してるので
国造勢力の減退は相当なものであろう。

知々夫(ちちぶ)国造の勢力の減退があり、
その立場にとって代わったのが
皇室を祖とする秩父平氏。
臣籍降下で東国に土着した。

平忠頼⇒秩父将恒⇒秩父武基
と代を重ね、秩父武基は秩父牧の別当職に就く。
そして
秩父武基⇒秩父武綱⇒秩父重綱と続く。

秩父重綱の代に国司の代理職である
『武蔵国留守所惣検校』になり、
名実共に
在地勢力としての武蔵国の筆頭になる。

この長男が秩父重弘で、畠山氏の祖になる。
次男が秩父重隆、河越氏の祖。

そして秩父氏は家督継承を巡り
長男と次男とで
血みどろの抗争をする。一族内での内紛じゃな。

事の発端は次男の秩父重隆が
秩父氏の名跡と武蔵国留守所総検校職を継いだ事であろう。
コレに対し秩父重弘の息子・畠山重能が反発というカタチ。

そしてこの家督争いが
保元の乱の前哨戦ともいわれる『大蔵合戦』に発展する。

大蔵合戦は

院近臣・源義朝・源義平・畠山重能
vs
摂関家・源義賢・秩父重隆

という多重構造な争い。

当時の武蔵国司は藤原信頼と思われる。
この時期から藤原信頼と源義朝の協力体制が出来上がったのだろう。
両者にとって
『武蔵国留守所総検校職』に就く『秩父氏』の勢力を削ぐ事は
願ったり叶ったりの状況とも思える。

この合戦で勝利を収めたのが源義平・畠山重能。
そして関東に於いて源義朝の影響力が確立される。

敗死した源義賢の息子が木曾義仲。

で、畠山氏は秩父氏の本拠地を確保し、
嫡流の地位も確保。
が、『武蔵国留守所惣検校職』にはなれず。

敗れた秩父重隆はこの合戦で死亡。
息子の能隆と孫の重頼は『河越』に拠点を移し、
『河越氏』を称するようになる。

そして地盤を失い
著しく弱体化した河越氏の後継者である『重頼』が
『武蔵国留守所総検校職』に任じられるという。

得をしたのは『藤原信頼』と『源義朝』という結果に。

この時点で秩父平氏は分裂し
武蔵北西部は畠山氏が実質的に支配。
それ以外の地域に
河越氏が名目上の影響力を持つ形となったのであろう。

因みに関東北西部には源姓の足利氏・新田氏が勃興している。

畠山氏は拠点対岸の足利氏・新田氏、
対立した河越氏と
拠点の南北で緊張状態に置かれてしまう訳だの。

で、その河越氏の拠点である『河越』(現・川越市)なんだが
河川流通の面で見ると凄い立地なのだな。

そして『武蔵国府』にも以前より近い立地である。
『秩父平氏の棟梁』が畠山氏に攫われたので
『留守所総検校』としての立場を重視したようにも思える。

で、この河越を流れる入間川の支流に『霞川』というのがある。
この『霞川』を遡ると青梅に至るんである。
青梅と入間・入間と河越を結ぶ街道もある。

そして青梅には武蔵南部へと流れる多摩川が。
多摩川を遡れば御岳山(武蔵御嶽神社)なのである。
御岳山の南には多摩川の支流・秋川がある。

河越に拠点を移した秩父平氏の河越氏が
『青梅地域』と『武蔵御嶽神社』に
影響力を持とうとするのは必然のように思える。
で、そこで『武蔵七党』の存在が気になってくるのだな。

『武蔵七党』の『西党』は
国司であった『日奉(ひまつり)氏』が
土着したのが始まりとされる。

その『日奉氏』の氏神を祀った神社が
日野市の市名の由来ともなっている『日野宮神社』。
この周辺が『西党』の根拠地であったと思われる。
根拠地が国府の西側だから西党。

で、この西党は『在庁官人』でもある訳だ。
つまり国司の代理、『留守所惣検校』の配下といえる。

ま、秩父平氏による多摩川流域への影響力の保有は
もっと早い段階から行われてたかもしれないのだが、
河越氏が『河越』に拠点を構える以前の段階では
切迫した必要性は低かったんじゃないかなー。

河越氏が元来の地盤を失い、河越に居を構え
『武蔵国留守所総検校』として
新たな地盤を構築する必要性から
多摩川流域に食指を伸ばしたとも思える。

西党を構成する氏族が
在庁官人であり、多摩川や秋川周辺を地盤としているというのは
『武蔵国留守所総検校』・河越氏にとって棚ボタなんじゃね?

で、やっぱ障害になってくるのが『武蔵御嶽神社』かと。
まぁ、対立するよりは共生の方向で事は進んだと思うけどね。

そして時代は下り『平治の乱』が勃発。
関東に影響力を誇示した
源氏の総領家が一気に衰退する。

時代は伊勢平氏の治世へと以降。
坂東平氏の立場は微妙。

で、源義朝の遺児・頼朝が伊豆に流罪。

頼朝の伊豆配流に伴い、
武蔵国比企郡の郡司職となった比企掃部允と共に
比企尼が領国のある武蔵に下向する。
比企尼は源頼朝の乳母でもあった。

この時、比企尼は東国の武士団に頼朝への援助を求めている。
そして河越重頼は比企の尼の娘(河越尼)を娶り、
頼朝との接点を構築する。

河越重頼と河越尼との間に生まれた『郷御前』は
源頼朝の弟、義経の正室となり、
結婚後はその最後に至るまで行動を共にした。

で、話を戻す。
後年、所謂源平合戦が起きると河越氏・畠山氏は共に
平氏方として合戦に参加。後に
頼朝に味方し、源頼朝の東国支配に貢献する。

その後、姻戚関係やら何やらで
河越氏は幕府内での地位を確保。

河越氏のこの時点での地位と云うのは
・重頼の岳母が頼朝の乳母・比企尼
・重頼の妻である『河越尼』が源頼家の乳母。
・義経の正室が娘の『郷御前』。

それもこれも頼朝の乳母であった
『比企尼』の存在と『比企氏』による所が大きい。

頼朝の嫡男・頼家の周辺は『比企一族』によって固められていた。
その恩恵に預かってたのが『河越氏』と云う事になる。

そんな河越氏だが、頼朝に対して義経の反抗が顕になると
義経との縁戚を理由に重頼・重房父子は誅殺され、
『武蔵国留守所総検校職』は畠山重忠のものに。

秩父平氏の総領で武蔵国の在地領主の首座と云う地位に
畠山重忠は上り詰めた。

この辺りで
『畠山重忠』と『武蔵御嶽神社』の関係が結ばれたんじゃろう。

そして追い討ち、『比企の乱』。
これで河越氏は後ろ盾を失う。

ところが
その間も無く『畠山重忠の乱』が起きるのである。

詳細は不明としかいいようが無いのだが
幕府内の権力抗争であろう。
頼朝の外戚であった北条氏による有力御家人の排斥。

これによって『畠山氏』が族滅。
名跡を足利氏の庶長子で北条氏と縁戚でもある
足利義純が継ぎ、源姓畠山氏が誕生する。

そして源氏将軍の断絶と『承久の乱』を経て
『武蔵国留守所総検校職』が河越氏に戻される。
が、その頃には武蔵国の主人が『北条氏』にとって代わられてるんじゃな。
『武蔵国留守所総検校職』は
名誉もへったくれも無いものと化していた。

この時期の武蔵七党の動静はイマイチ把握しきれとらんのだが
畠山氏や河越氏の経緯を経て
徐々に北条氏の被官と化していったと思われる。

武蔵国の統治権を示す『武蔵守』という官職が
代々北条氏に独占されてもいる訳でしてね。

武蔵七党は在地領主として支族を増やし、
戦乱の度に各地方に分散し土着していったと思われる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、漸く自分の中で
『乙津』近隣の妄想が書ける下地が出来たんだな。

ここまでが長ぇ・・・。

-----------------------------------------------------------------