更なるgdgd妄想 | つれづれなるまゝに

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狂ひたるモノ・侘助

まー、なんだね。
秋川上流の養沢・乙津・戸倉集落の過去を紐解こうと思ったら、

武蔵全域の歴史と関東の歴史、
そして各時代の中央権力に関わるモノにまで
話が拡大してしまってるんだな。
で、乙津集落の話に戻れなくなってるってゆー。

が、妄想は止められないw

檜原村の最奥に『数馬』という集落がある。
伝承としては
『南朝方に付いた中村数馬守という人物が
 この地に辿り着き、里を拓いたのが始まり』だという。

この中村数馬守というのが『小野氏経』であり、
武蔵七党の横山党・小野氏の出であるという。

その御子孫が檜原村の九頭龍神社の宮司さんや
旅館・山城を経営されたりしている。

さて、ここから脱線である。

この横山党についてgdgdと妄想を働かす。

武蔵七党の横山党と猪俣党が『小野篁』を祖としてるのね。
事実かどうかは不明瞭であるんじゃが、
町田市小野路にある小野神社は
天禄年間(972年頃)に
武蔵の国司として赴任した小野孝泰により、
先祖・小野篁を祀るために建立された
という。
この『小野孝泰』が『小野篁』の七代の裔とされてる。
この人物を祖とするのが『武蔵七党』の横山党・猪俣党となる。

が、この『小野孝泰』の出自がどうも腑に落ちない。
憶測だが、秩父国造系の氏族ではなかろうか。
もしくは架空の人物。

というのも、
この小野路の『小野神社』の祭神に関してなのだが
明治の神仏分離の際、当初は『天下春命』を祭神として提出。
その後、祭神を『小野篁』と、訂正してるんである。

『天下春命』ってのは
秩父神社の祭神・『八意思兼命』(オモイカネ)の御子。

ここで出てくる祭神ってのは
元来は祖霊(祖神・氏神)信仰なんじゃな。

滋賀県大津市にある『小野神社』の祭神は
『天足彦国押人命』と『米餅搗大使主命』である。
小野篁の御先祖さんである。

そう捉えると
『武蔵七党』の小野氏(横山党・猪俣党)というのは
小野篁とは血統的に無関係で、
『知々夫(ちちぶ)国造』を祖とする系統と思われる。

それと気になるのが

・承平年間(931年~938年)
 武蔵国に『小野牧』が創設される。

・承平天慶の乱
 関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱。(ほぼ同時期の争乱)

・藤原純友の乱
 鎮圧にあたったのが小野篁の孫・小野好古(884年~968年)。


という事象。

まず、
小野篁の七代の裔という小野孝泰の実在性に疑問符が付く。


そんでもって、武蔵国の経緯を調べる。

『知々夫国』(ちちぶ)と『无邪志国』(むさし)が成立。
それともう一つ『胸刺国』というのもあったらしい。

朝廷より国造に任じられた者が地方行政を仕切る。
その国造に任じられた者が土着し、世襲が行われ始める。
国造の『氏神』を祀る神社(秩父神社・氷川神社)も、この頃に創建か?

无邪志国造の初代が『兄多毛比命』とされるが
謎の多い人物、というか謎そのものなので割愛。

亦、『武蔵国造の乱』というのが6世紀頃にあったとされる。

そして律令の制定。行政区分の統廃合と制度の刷新。

その結果、
『知々夫』(ちちぶ)と『无邪志』(むさし)、『胸刺』が統合され
『武蔵国』が誕生する。

律令によって国司が『長』として中央から派遣されるようになり、
国造職の権限が縮小される。中央集権化。


そして時代が下り、
・知々夫(ちちぶ)国造系の没落と坂東平氏の台頭。
・武蔵国司と无邪志(むさし)国造系氏族『武蔵竹芝』の衝突。
・その仲裁者として『平将門』の登場。
となる。

垣間見れるのは土着した『国造系氏族』と
中央から派遣される『国司』との軋轢。
そして『坂東平氏』の存在。
『坂東平氏』は臣籍降下の貴種であり新興土着勢力でもある。

個人的な見解としては
知々夫(ちちぶ)国造系氏族・横山氏が開拓した土地を
『小野牧』の新設で朝廷側が
有無を言わさず召し上げたんじゃねーのかと。

だとすると、横山氏は
『武蔵竹芝』に与するのが自然な感じなのである。
平将門の勢力拡大時期でもあり、朝廷への反抗が野放しな情勢でもある。

この間に横山氏による
小野牧への侵食があったかもしれない。

んで、将門の乱・純友の乱が鎮圧され、
横山氏は頼る存在を失うと。

が、関東は将門の乱以降、争乱の巷なのである。
朝廷の権威権力は低下していく一方である。

その間、
横山氏は祖を小野氏とする事で
武蔵国小野牧への進出を
取り繕ったんじゃねーのかな、と。
そこで産み出されたのが『小野孝泰』と云う存在なのであろう。

で、武士の世の到来で
この横山氏が『武蔵七党』の一角を占め、権益を確保する、と。

つまり、武蔵七党を構成する氏族は
・知々夫(ちちぶ)国造系氏族
・无邪志(むさし)国造系氏族
・国司の任を終え土着した氏族
を祖とする家系なんじゃねーのかなと考えてみた。

武蔵国の『小野神社』というのは
祭神を『天下春命』とする知々夫(ちちぶ)国造系横山氏が
『小野牧』を支配する経緯で
祖を小野氏と称した結果、出来上がってしまったんじゃないかな。

先にも書いたが
秩父神社の祭神・『八意思兼命』(オモイカネ)の御子が
『天下春命』になる訳で。

そのチグハグさが表出してしまったのが
町田市小野路の『小野神社』なんじゃなかろうか。

そんでもって武蔵国の一之宮から六之宮を構成する各神社は
武蔵七党との関連が深いんじゃなかろうか。

と、gdgd妄想をしてみた。


ついでのgdgd妄想。

无邪志国造の初代が『兄多毛比命』とされるが
謎の多い人物、というか謎そのものなのでサッパリワカラン。

大宮・氷川神社は彼が祖神を祀ったのが始めとされる。
祭神の『大己貴命』は『大国主神』。
出雲族であろうか。
『兄多毛比命』は
府中・大國魂神社では摂社・坪宮に祀られ、例大祭では
奉幣がなされるという、極めて重要な社になっている。

『兄多毛比命』が国造に任じられた頃の東国は
朝廷にとって僻地であり、重要な開拓地域でもある。
そして何より、敵対勢力との最前線でもある。
多くの氏族が『隔離』・『開拓』・『戦闘』・『左遷』といった
複数絡み合った事情で派遣されてきた地域と思える。

兎も角、『兄多毛比命』が国造に就いた後の事が
皆目見当付かんのだ。

そして6世紀頃に『武蔵国造の乱』が勃発。
後代の无邪志国造の氏族が
『兄多毛比命』の子孫なのかは判断が出来ない。

で、今回のgdgd妄想が終了~。

話は変わるが

武蔵七党の勢力分布というのを調べてみたいと
少しだけ思ったんだわ。
『祖霊(祖神・氏神)信仰』と云う観点で
神社をつぶさに調べていけば、ある程度は把握出来るであろう。
七党の氏族or祖先(祖先とされる人物)の氏と
共通名の神社を調べればいいのである。

この方法は武蔵七党に限らず、どの地域でも使えるじゃろう。
現代の祖先探しとかでも使えない訳でもないのだが
明治期のアレの影響が凄まじいので、なかなか難しそうではある。

・・・やっぱ調べるのはやめとこう、うん。

それにしても
武蔵七党、なかなか興味深い。

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