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狂ひたるモノ・侘助

当初、乙津集落の成り立ちを遡ろうと考えた。
出てきたのが『豪族・小宮氏』の存在。

この小宮氏と云うのを調べてみたら
どうやら『武蔵七党』の『西党』を形成した
武蔵国司・日奉宗頼の氏族のようである。

西党に属する平山氏が檜原城主でもある。
西党は秋川・多摩川流域に根ざした集団とされる。

それと、気になるのが
秩父平氏、重綱の五男、小宮五郎と云う存在。

秩父重綱は『武蔵国留守所総検校職』にあり、
『武蔵七党』の上位に立つ存在である。
その長男の家系の裔が畠山重忠になる。
次男の家系が河越氏で
その系統が嫡流とされた為、後に内紛を呼ぶ。

小宮五郎については詳細不明。

秋川流域に根ざし、文献史料に出てくるのは
武蔵七党の小宮氏と見て問題なかろう。
そしてその拠点が『戸倉城』と思われる。

コチラ(pdf)では
初代・小宮三郎通經の土着を12世紀後半と推定してるが
オイラが思うに
あくまでも小宮氏が『地頭職に就いた』のが12世紀後半であって、
この時期を小宮氏の土着時期と看做すのには問題があるように思う。

因みに
西党の祖・日奉(ひまつり)宗頼は
承平元年(931年)に武蔵守として下向し、
そのまま土着したといわれる。
日奉氏は大伴氏の氏族とされる。

秩父氏の祖とされる平将恒は
寛弘4年(1007年)~天喜5年(1057年)の人物とされる。
父は平忠頼、母は平将門の娘。

この
平将恒から武基~武綱~と経て、秩父重綱に至る。

将恒の弟に平忠常がおり、
後々、平忠常の乱・長元元年(1028年)~長元4年(1031年)を起こす。
この乱の討伐に源頼信が当たり、その傘下として
坂東平氏が参集した。
これが清和源氏による東国支配の布石となる。



そして気になる事案、『平将門の乱』である。
乱の時期は935年~940年。

将門が武蔵に介入する切欠となったのが
武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基が新たに赴任してきた際に
武蔵国の在庁官人で氷川神社を祀っていた武蔵武芝との争い。

その後、興世王と武蔵竹芝は平将門の斡旋で和解

そして
武蔵竹芝の娘が秩父氏の祖・平将恒に嫁いだとされている。
(年代的に微妙な話。武蔵竹芝は何歳なのよ)

源経基が朝廷に訴え、将門が追討される
興世王と武蔵竹芝の消息は不明。


改めて整理すると、

・武蔵七党を構成する西党の祖・日奉(ひまつり)宗頼が
 承平元年(931年)に武蔵守として下向し、そのまま土着

・承平8年(938年)、武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基が新たに赴任
 在庁官人で氷川神社の祭祀・武蔵武芝との争い勃発。

・平将門の乱・935年~940年

・武蔵竹芝の娘と秩父氏の祖・平将恒の婚姻?

・平忠常の乱・1028年~1031年

・源氏の台頭、秩父氏等、坂東平氏の上位に源氏が君臨

・前九年の役、源頼信の嫡子・頼義が討伐に向かう。
 この戦役で平(秩父)将恒が戦死。

となる。

で、肝心な武蔵七党の西党に属する小宮氏なのだが。
オイラには史料が見つけられない。

大雑把に関東地域の流れを見るに
小宮氏は秩父平氏の傘下として地盤を固めていたと思われる。

秩父平氏は武蔵全域を影響下に置く事に成功したとも思える。

後代、鎌倉幕府の成立によって武蔵国では

源氏
↓↑
秩父氏(畠山氏・河越氏)
↓↑
武蔵七党

という枠組みが成立する。

で、『乙津集落』の話に戻す。

養沢に日本武尊に纏わる伝承が残るとした。
そして、伝承と信仰が結びついてもいる。

養沢流域に信仰集団が居た事は
これら伝承が物語っている。

ただその信仰集団は
『小宮氏』とは違う存在という事になる。

前回の記事は『豪族・小宮氏』という文字を見て
オイラが早合点してしまったのだな。
小宮氏についてきちんと調べる必要があった。

でだ、養沢流域の信仰に根ざした集落と
武蔵七党に由来する小宮氏、平山氏。
これらの関係は比較的良好だったと思われる。
小宮氏が戸倉城を拠点とし
平山氏の一部が檜原城を有した。

それを結ぶラインが檜原街道であろう。

古来からの道筋は
戸倉から養沢方面・御岳山へ。
そして
御岳山・大岳山を結ぶ山岳ルート。
浅間嶺を中心にした各要所を結ぶルート。

といったところか。

こんな感じで日本武尊の東征以降、
南北朝時代までは
比較的平穏な時代を過ごしてきたと思われる。

その間に武蔵を拠点とした武士団による
御岳山信仰も浸透したのであろう。

但し鎌倉時代に畠山氏の没落があるのだな。
とはいえ河越氏が健在であるので
体制的には問題は生じてなかったと思われる。

その後、
鎌倉幕府の滅亡と足利氏の台頭が状況を変える。

この辺りの時代から関東諸勢力の権力構造が
ぐちゃぐちゃになる。
正直、理解不能。


足利氏が幕府に変わって支配権の確立を目指す。
この地域での狙いは
武蔵国の武士団が信仰する御岳山ではなかったか、と。

その為に御岳山に変わる存在として
天皇の名のもとに『戸倉城』に『光厳寺』を創建、
支配圏の拡大を目指したと思われる。

秩父氏の立場に足利氏が取って代わろうとしたというのが
オイラの妄想。


この過程で争乱が起きたように思う。
そして
妥協案が提示され実行された。
ある種の権益保護だろうし、信仰の有り様でもあろう。

『光厳寺』を軸とした
禅宗寺院に依拠したカタチでの支配権の確立は
結局の所で失敗したんじゃろうな。

これによって
この地域の安定が
小宮氏に委ねられ始めたのではなかろうか。
この時に構成された枠組みが
後々『武州南一揆』となるのであろう。


足利氏の軍事拠点の確立と云う意味では
一応は成功したと思われる。
それが
武蔵野合戦での足利尊氏の動向であろう。

尊氏が金井原・人見原での南朝方との合戦の後に
撤退した場所に関してなのだが、
以前に自分は関戸方面じゃないの?と疑問を呈した。

が、こうしてみると
多摩川上流域に撤退し、
軍を整えられる拠点が存在したとも思える。

ただし、この『武州南一揆』が
尊氏の助勢の為に多摩川を下り
関戸方面に繰り出した可能性も残る訳だがね。

その後の合戦は
高麗原⇒入間河原⇒小手指原
と推移してるので
尊氏の撤退した場所は
武蔵国の中部から西部と思われるんだわ。

この一連の戦いで
尊氏方として『河越直重』という名前が出てくる。
畠山重忠一族の族滅後、
河越氏は名実共に秩父氏系一族の棟梁として
武蔵国惣検校職に就いているのだな。
『武蔵平一揆』の中心人物である。

この河越氏の影響力は
武蔵七党や武州南一揆にも多少は及んでいたと思うのだが
拘束力は殆ど持ちえていなかったようにも思う。

そんな河越氏も
この武蔵野合戦の後に上杉氏との抗争で
『武蔵平一揆の乱』を起こし衰亡してしまうという・・・。
この時の乱に武州南一揆は関与して無い模様。

多分
上杉氏と河越氏を量りにかけたんじゃろうねぇ。

そして上杉一族の関東西部の支配が確立し
その下に武州南一揆が参集。
ここに漸く
『小宮上野介憲明』が登場する下地が出来上がるのだな。


乙津集落の成り立ちの考察の筈だったんだが
訳のワカラン方向に行ってる気がする。

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