ここのところ
長文記事が多い気がする。
それだけイロイロと思うトコロがあるのだろう。
と言いつつ
亦、長文記事になる。
んー、物思いに耽ってしまうのである。
『民主主義の普遍性』ってものが
存在するのか否か、ってトコからスタート。
地域の有力者が参集し『合議政体』を形作るってのは
世界史的にもよくある光景。
ただ、合議政体=民主主義ではないんだよな。
国家内の地域の有力者が
どのようなカタチで
その『有力者』と云う地位に就いてるのか。
そこが要点になる。
宗教・血統・経済力・軍事力などを背景にして
地域の有力者になってる場合、
その国家の持つ御国柄・文化などが強く影響を及ぼす。
亦、そういった文化的価値観を背景としてるからこそ
地域の安定にも結びつく訳だ。
地域の安定を希求するのであれば
民主主義に拠る必要性は低下する。
そうなると
民主主意に普遍的な価値観を見出すことは
なかなか難しい。
民主主義ってのは
根幹となる価値観を共有し、
その価値観の否定を行わないという
約束事が必要になる。
それが『法治』という概念に繋がると思う。
この『法に拠る支配』に関しても
どのような『法』に拠るのかで様々な対立を生む。
『宗教的戒律の延長にある法』
『独裁・専制体制の主権者が定めた法』
『過去から現在にかけて、多くの人間の営みから導き出された法』etc・・・。
法治主義にしても『拠るべき法』が多種多様なのである。
永続的な民主主義はこのような様々な『法』に依拠する事で成立する。
そして
各地域の文化的土壌を無視することは出来ない。
その『法』が地域に根ざした価値観を否定するものであれば
依拠する意味を見出すのは相当困難なものとなる。
現実に即した政体を構築することが
国家の成立と継続、地域の安定に寄与する。
となると、
民主主義の普遍性と云うのは
『出来たらいいな』
という幻想でしかないのでは、という疑念。
民主主義を根付かせる為に武力を行使するのであれば
軍事独裁に近い強権支配とも思える。
と、理屈を捏ね回してみた。
民主主義政体の国家ってのは
各地域の文化的価値観を土壌とし
そこで育まれた価値観を以って
その国民自らでしか成し遂げられない政体
なんだと思うのよ。
その成立過程をすっ飛ばして
築くことは出来ないんじゃろうね。
そして民主主義国家ってのは
拠るべき法のあり方で様々な形態を産み出すし、
その多様性の否定は民主主義の否定にも繋がってしまう。
となると
民主主義の普遍性に関して、
理想像としての普遍性しか見出せないのだが。
アラブの春や
EUの経済的統合
が齎した(てる)ものとは
一体なんなのであろうか。
民主主義の普遍性よりも
文化的価値観の共有が出来るか否かが問題になってる。
民主主義ってのは結局
エゴのぶつかり合いなんだよね。
その対立をどのように収拾するのかってのが
文化的価値観、その文化の土壌が持つ役割なんじゃなかろうか。
生活に根ざした価値観と云うことだわな。
だからこそ『拠るべき法』は文化的背景を無視出来ない。
文化的背景に依存せざるを得ないから
民主主義国家といえども国家規模で文化的価値観の対立を生む。
そして
その国家規模の対立を収拾する文化的土壌が未だ育まれて無い。
未だ普遍的価値観と云うものを地域性でしか見出せていないのかも。
とか考えてたら、ひとつあった。
ゼニやがな、ゼニw
とはいえ、
どーやって対立の収拾に用いればいいんだろーかねぇ。
逆に対立を煽る道具になってる気もするしなぁ。
・・・ゼニは神を超えられるのか?
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