一帯に宮殿施設?
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泊瀬朝倉宮の掘か
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2012年9月25日
泊瀬朝倉宮?興味津々
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2012年9月30日
いづれも奈良新聞。
雄略天皇の存在は
以前から凄く興味があった。
『宋書』・『梁書』に記される『倭の五王』中の倭王・武に比定されている。
本拠地であった『泊瀬朝倉宮』の位置が特定されれば、
それ以前の皇室・天皇の存在がある程度示される事にも繋がる。
とはいえ、
この皇統は4代後の第25代天皇・武烈天皇で途絶えてしまうのだが。
因みに武烈天皇と、雄略天皇を同一視する見方もある。
ま、後を継いだ継体天皇が応神天皇5世の子孫であるという実証が為されれば
神武天皇以来の男系皇統は途絶えて無いと言い切れる。
このあたりの研究は大いに進んで欲しい所だが、
継体天皇が皇室と無関係であった可能性が否定できない以上、
研究の大きな進展ってのは望みが薄いようにも思える。
いづれにしてもこの時代の研究は皇室と密接に関わる内容でもあるし
『ヤマト王権』の存在のあり方を知るという観点や
日本と云う国家の生成過程を眺めるという部分で大変興味深い。
遺跡が見つかった事で文献資料の信憑性にも関わる話だしな。
個人的には『ヤマト王権』ってのは
『卑弥呼』以降の九州からの亡命政権だと考えてる訳で。
この辺の事は以前、妄想記事を書いたのでソチラを御覧くだされぃ。
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