太平記の | つれづれなるまゝに

つれづれなるまゝに

狂ひたるモノ・侘助

記述の中に尊氏は
『人見・金井原』の合戦で敗れた後
『屏風岩』のある『石浜』or『牛浜』まで敗走し、

体勢を立て直し『小手指ヶ原』の合戦等、新田勢との争いを繰り返した。(武蔵野合戦)

候補地とされる『台東区・石浜』には屏風岩に相当するモノが見あたらない。
有力地とされる『あきる野市・牛浜』は確かに『屏風岩』があるし
太平記による『~はま』と云う地名にも符合する。

が、合戦後の敗残兵が到達できる距離とは思えない。

そして先の記事に挙げた
『村尾嘉陵』による随筆『江戸近郊道しるべ』の記述。

『御茶屋街道を進み、嘉陵(かりょう)一行は多摩川の河原に到着。
 流れが浅く歩いて渡れそうな場所(浅瀬)が、たくさんある。水は少ない。』

『さて、地元では、向う岸の山を、一の山、二の山、高い山を大丸山などと呼ぶ。
 土地の人は「向う山」といい、物好きな人は「向うが岡(丘)」などとも呼ぶ。
 万葉集の人麿や平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌僧の顕昭(けんしょう)も
 多摩川の風景を見て、歌を詠んだようだ。(略)

『さて一行は、川原で風景を楽しむ。
「屏風岩」と呼ばれる岩や対岸の山に残る雪、
 夕焼けに赤く染まる山々など、絵にも描けないくらい美しい。
 それぞれが川原の石を三つ、五つと拾っておみやげにする。
 ここより川下には、仮の橋が架かっている。
 毎年10月の末頃から冷たい水の浅瀬を渡るのも大変なため、架橋されたものである。』



と云うような記述がある。
ようは府中・是政対岸の丘陵地(多摩川と多摩丘陵が接する最終地点)の事を
『屏風岩』と表現してるようである。

旧来の多摩川が府中側の台地直下を流れてたとしても
大栗川や浅川の流れがこの多摩丘陵の下部を洗うように流れていたと思える。

以前書いたとおり、府中崖線下部は氾濫原でしかなく
江戸期に整備された府中用水が旧来の多摩川の流れだとすれば
行く筋にも広がった流れになっていたとも思える。

で、話を戻すと『~浜』の部分『一ノ宮』の聞き間違いじゃなかろうか

『一ノ宮』⇒『一宮』⇒『石浜』⇒『牛浜』な感じ。

ま、妄想でしかないけど。