私の兄が獵が好きで、ポインター、セツター、猪犬等の獵犬を澤山飼つてゐましたから、私は子供の時分から大の犬好きでした。

叉中學時代の英語の先生に犬好きがあつて、フオツクス・テリアの牡牝の、當時としては非常によい犬を貰つて、飼つたこともありました。

繪も中學時代から盛んに描いたものですが、犬の繪を描いたのは、ごく最近、今から二年位前からで、それまでは畫生活三十年にもなりますが、一度も描いたことがありません。犬の繪は描けないもの、それ程はつきり意識してゐた譯ではありませんが、暗々裡にさうした氣持があつて描かなかつたのかも知れません。

 

ところが二年位前に偶然人に頼まれて描いたシエパードの繪が、私の知人で京都のシエパード界の草分けと云はれてゐるお醫者の酒井さんの目に觸れ、存外よく描けてゐると批評されたのがキツカケとなつて、犬の繪に自信がもて、犬は好きなり、大に犬の繪を描かうと云ふ氣持ちが動き、今日ではあらゆる犬種を繪筆にのせて見たいと云ふ、大野心まで持つやうになりました。

 

そして更に積極的に犬の畫と云ふよりも、むしろ眞の犬の姿を寫し出したいと云ふ、犬本位の氣持にまでつき進んで來ました。

即ち犬の各種類の特徴、相貌とか犬種によつて決められてゐる體型等も顧慮して、如實の姿を現はすことに努めてゐます。

換言すれば犬の肖像畫で、繪畫的には或は藝術味に乏しいと云ふ非難があるかも知れませんが、私はかゝる批評に臆せず、各犬種の眞の姿を後世に胎す意氣込みで描いてゐます。

 

それで描き始めてから僅か二年そこそこですが、その二年間に随分いろ〃の犬種を描きました。今ザツと頭に浮んだゞけでもシエパード、エアデール、ドーベルマンの軍用犬種を初め、日本犬、ワイヤー、スコツチ、日本テリア、セント・バーナード、グレート・デン、コリー、ボルゾイ、ブルドツグ、獵犬ではポインター、セツター、コツカー・スパニール等があげられます。

 

以上の中で體型の非常に喧しく云はれる犬種、例へばシエパードとかエアデールは描くのに随分苦しみます。

何分體型が嚴然とものを云つて、繪畫的になり惡いのです。それも體型は立體に四方から觀察されて云々されますが、繪畫は平面的で一面から見たもの故かう云ふ風にして呉れとか、それでなければこの犬の特徴が出ないと云はれても、どうもそれが註文通りに甘くゆかぬのです。一寸位置が動いてももう感じが變つて仕舞ふ。シエパードの胸の線とか、エアデールの顔の線など、非常に美しく、特徴的ではありますが、さて寫生するとなると、さうさうにこちらの註文通りになつて呉れず困るのです。

 

そこへ行くとワイヤーとかスコツチは非常に特徴の摑みいゝ犬です。特徴が大摑みにハツキリとしてゐて、且つ滑稽味を多分に持つてゐるからでせう。

新聞や雑誌のカツトや漫畫にこれらの犬種が屢屢描かれるのも、さうした關係からカリカチアになりやすく、描きよいためです。

玩具などにもよく取扱はれますが、やはり同じ關係からです。ボルゾイ、コリーも割合樂に特徴が出ます。

反對に私の今迄描いた犬種の中で一番表現の六ヶしいと思つたのはブルドツグです。何回描いても失敗です。

その原因がどこにあるか自分にも判りませんが、いくら描いても、どうも實物と似ない。矢張り顔のせいかと思ひますが、とにかくまだ十分ブルドツグの特徴が摑めないためでせう。

それからブルドツグの狐毛と云ふか、あの差毛の感じが、却々出て來ません。

 

叉毛の長短で云ひますと、長毛の方が個性が出しよく、描きよいやうです。それに長い毛を描くのは非常に面倒ですが、それ丈け効果が出て來るとも云へませう。

獵犬などでもセツターやコツカー・スパニールなどの長毛種は、あの優しい姿が比較的容易に描き出されますが、短毛のポインターは見た目には如何にもスツキリとして颯爽たるものがありますが、これを繪にすると、どうも甘く行かぬ。漸くバツクなどで幾分その効果が救はれると云つた次第です。

 

今迄私の描いた犬の繪で、一番快心の作を云へばシエパード犬です。尤も數もシエパードを一番澤山描いてゐますが、全體の形としてもシエパードが一番洗練されてゐるやうに思ひます。それに眼の表情がシエパードは一番です。私はどの犬種でも眼を特に重視してゐますが、シエパードは表情に富み、さうした感情がこちらにも受入れられるので、割合樂しく描けるのではないかと思ひます。

叉シエパードの毛色は別に斑があるわけでなく單純のやうで、實は變化があり、描く度に違つた、それぞれ特徴のある毛色をしてゐて、その面白味があります。

そこへ行くとエアデールの毛色は各犬それぞれ特徴があるにも拘はらず、感じが殆んど同じで描分けることが困難です。

 

日本犬はまだ數頭しか手がけてゐませんが、私は單に大、中、小の日本犬を描くと云ふより、その地方地方で、それ〃特徴がありませうから、その特徴をハツキリ描いて、さうした記録をのこすことも有意義ではないか、と思います。

即ち前に述べた犬の肖像畫に甘んずるのも、かゝる意味から出、畫家としては繪畫的に描きたいのが山々ですが、さうすれば眞の犬からは似なくなる。犬好きの私としては藝術味はたとへ希薄であつても、犬の眞の姿が描ければ滿足です。

 

「畫になる犬(昭和13年)」より