ロシア人が島を占領して、ギリヤーク人たちを虐待しはじめた際に、ギリヤークのシャーマン教の僧がサハリンを呪つて、今後この島からは、利益は何一つ得られないだらうと豫言したといふのである。
―だから、その通りになつたんですよ―と、イプセンに似たドクトルは溜息をついた。
 
チェーホフ著・中村融訳『サハリン島』より
 

アイヌ、ニヴフ、ウィルタなどの先住民そっちのけで日本とロシアが争奪戦を繰り広げていた樺太島。両国による樺太・千島交換条約締結から30年、事態が大きく動いたのは日露戦争末期のことです。

「日本大勝利!」のように伝えられる日露戦争も、国力が尽きる寸前で講和へ持ち込んだのが実情。そのポーツマス条約締結を有利に進めるため計画されたのが、日本軍による樺太侵攻作戦でした。
樺太を巡る日本とロシアの戦争は、チェーホフが記した「予言」を不幸にも的中させてしまいます。
 

サハリン
日本軍による樺太上陸作戦を機に、樺太島南部は日本領となります(明治38年)

 

【北サハリンの犬たち】
 

1700年代より、樺太島にはロシア、清国、日本などの周辺諸国が介入。日露の雑居地扱いから樺太・千島交換条約でのロシア領を経てポーツマス条約が締結されると、樺太島は「ロシア領の北サハリン」と「日本領の南樺太」に分割されました。
これにより日本人は南樺太の情報を入手できるようになりましたが、北緯50度線の向こう側、ロシア領サハリンの状況はどうだったのでしょうか?
まだ樺太全土がロシア領だった時代、現地レポートを記した人物がいました。犬に関する記述も含まれているので、今回はそれを引用していきましょう。
 
日本が樺太島へ進出したのは、北方への権益拡大と資源獲得のため。いわば新規開拓エリアとして、日本領事館員とは別に商人や漁業関係者も競って出稼ぎに赴きます。
いっぽう帝政ロシアにとってのサハリン島はといいますと、「犯罪者の流刑地」でした。開拓の労働力として、政治犯や犯罪者を送り込む場所だったのです(流刑される親や夫を追ってサハリンへ移住した家族も苛酷な生活を強いられました)。無計画な開発はサハリンの自然破壊につながり、棲家を追われたヒグマが人畜を襲撃する事件も相次ぎます。
巨大な監獄と化した極東の島に、自ら進んで入植したがる商人や開拓者はいません。結果としてロシアのサハリン開発は停滞しました。
 
明治23年(1890年)、この島を訪れたのが劇作家のアントン・チェーホフ。彼が目にしたサハリンは、シベリアの果てに浮かぶ陰鬱な追放植民地でした。
ちょうど来島していたアムール州総督のコルフ男爵は、チェーホフと面会のうえ自由通行証を発行してくれます(来島目的が学会や新聞社の依嘱ではないこと、政治犯への接触不可などが条件)。
農業植民をすすめたいロシアは「サハリンは豊穣の地である」と宣伝していたため、本音では島外者にウロチョロされたくなかったのでしょう。
 
豊穣の地どころか、粗末な食事で苦役にあえぐ5905名の徒刑囚たちは、刑期を終えても移住囚としてサハリンに留め置かれます(移住囚は10年後に農民へ昇格できますが、大陸側への転居には厳しい条件が定められていました)。
暴力と絶望の中で生きる男性流刑囚、更に悲惨な境遇へ貶められる女性流刑囚、「夫の生活を直しに行って、自分の生活を失った」囚人の妻子、腐敗しきった役人や看守、囚人以下の支給品で極東の警備にあたる兵士(日本の屯田兵と同じく半農生活)。そしてヒエラルキーの最下層に押し込められた先住民たち。
耐えかねて脱走した囚人はヒグマや狼が徘徊する深い森をさ迷い、飢えと寒さに苦しみ、結局は監獄へ戻らざるを得ません。
サハリン島で三ヶ月間を過ごしたチェーホフ(医師でもあった彼は現地医療もおこなっています)は、日本旅行の予定をキャンセルしてモスクワへ帰還。その悲惨な実態を、ルポルタージュ『サハリン島 (Остров Сахалин) 』にて発表しました。
 
まだ日露によるサハリン犬界への影響が少なかった明治20年代、カラフト犬はどのように飼育されていたのか。
チェーホフの著作では犬に関する描写もありますので、幾つか抜粋してみましょう。彼が上陸したのはアレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港)であり、後の北サハリン地域の記録としても興味深いものがあります。
まずはカラフト犬を番犬に用いたケース。
 
見ると、街路を警察署の方へ向つて、こゝの土着人であるギリヤーク人(※ロシア語によるニヴフの呼称)の一群が歩いてゆき、それに向つて、おとなしいサハリン産の番犬どもが腹立たしげに吠えたててゐる。この犬どもは、どういふものか、ギリヤーク人だけに吠えかゝるのである。
また別の群が來る―、帽子は、かぶつたり、かぶらなかつたりまち〃の、足枷をつけた囚人たちが、鎖をガチヤ〃鳴らしながら、砂を積んだ、重い手押一輪車を押して來るのである。
一輪車のあとには、子供たちがぞろ〃つながり、兩側には、汗ばんだ赧(あか)ら顔で銃を擔つた護送兵が、ぞろり〃足をひきずつて歩いてゐる。
 
家(※灯台小屋)の傍には、猛犬が鎖に繋がれて、うず〃してゐる。大砲や鐘もある。また話によると最近こゝへサイレンを持つて來て、取り付けるといふことだが、それは、恐らく、霧のたちこめた折などに唸つては、またアレクサンドロフスク住民の郷愁をかりたてることであらう。
燈臺の燈下に立つて、海と、激浪逆まく「三人兄弟」岬を見下すと、頭がくら〃つとして、氣がすくんでしまふ。(※大陸側の)タタールの沿岸や、デ・カストリイ灣の入口までも、かすかながら見渡せる。
 
カラフト犬は、流刑囚のペットとしても飼育されていました。悲惨な生活の中で、ペットの犬猫はささやかな癒しであったのでしょう。
 
サハリンでは、それを建てる者がシベリア人であつたり、小ロシア人であつたり、フィンランド人であつたりすることによつて、凡ゆる種類の小屋を見ることが出來るが、しかし、一番多いのは、六アルシンぐらゐの小さい掘立小屋で、窓は二つ、三つ。外觀の装飾などは全くなく、屋根は、藁か、樹の皮か、稀には、板で葺かれてゐる。
家についた空地といふものは、普通にはない。周圍にも樹木一本ない。納屋、シベリア式の風呂も、稀にしか見かけない。
犬がゐたとしても、それは、のろ〃した、元氣のない犬で、既に語つたやうに、ギリヤーク人だけに吠えかゝる奴である。恐らく、これは、彼らが、犬の皮でこしらへた履物をはいてゐる所爲ででもあらうか。しかも、このおとなしい、無害な犬が、何故かちやんと繋がれてゐる。また、豚がゐれば、これも、くびに枷がはめてある。鶏も同様、足を繋がれてゐる。
―何だつて君んとこぢや、犬や鶏まで繋いでおくんだね?―と主人に訊ねてみる。
―このサハリンぢや、何でも鎖つきでさあね、―と彼は洒落のめしてしまふ。
―何しろ土地が土地ですからねえ。
 
外觀では、コルサコーフ村は優美な、しかも未だ文明が觸れてゐない、さゝやかなロシアの村落と、見まがふばかりに似通つてゐる。
はじめて、わたしがそこへ行つたのは、日曜日の晝食後であつた。靜かな暖い天候で、いかにも祭日らしい感じであつた。百姓たちは木蔭で眠つたり、茶を飲んだりしてゐた。お上さん連中は、たがひに虱を取り合つてゐた。小庭や菜園には花。窓窓にはゼラニウム。
子供が多く、みんな町へ出て、兵隊ごつこや馬遊びをやつて、腹がふくれて睡たがつてゐる犬を相手にはしやぎ廻つてゐる。
 
貧困や、惡天候や、絶え間ない鎖の響きや、朝夕變らぬ淋しい山々の眺めや、潮騒などのために、また鞭や笞で體刑が加へられてゐる監視室から時たま洩れて來る、呻き聲や泣き聲などのために、この土地では、時間といふものが、ロシア本國に於けるよりも、何層倍も永く、惱ましいものに思はれるのであるが、この時間を、女たちの場合は、どうやつて過ぎて行くのであらうか?といふと、この時間を、女たちは、完全な無爲のうちに過ごしてゐるのである。
主に一室からなる一軒の小屋には、徒刑囚の家族がゐる。いつしよに兵卒の家族もゐる。二、三人の徒刑囚の同居人か、客もゐる。また、そこには、未成年者もゐる。隅つこには揺籃が二つ、三つある。
牝鶏がゐる。犬がゐる。路上には、小屋の傍に塵芥があり、汚水の溜りがある。
仕事もなく、食べ物もなく、話したり罵り合ふのも飽き〃したし、街へ出てもつまらないといつた具合である。
―何とすべてが、單調で、沈滞しきつて、醜惡なことだらう。なんといふ憂鬱さだ!夕方には、徒刑囚である夫が歸つて來る。彼の方は食べたいし、眠りたい。それだのに妻は、泣いたり、喚いたりしはじめる。
 

犬

アレクサンドロフスク・サハリンスキーの郵便局に到着したロシアの犬橇(明治38年)
 
刑期を終えた後、農民へ昇格するまで犬橇運送で稼ぐ移住囚もいました。当り前ですが、先住民族だけではなくロシア人も犬橇を用いていたのです。
 
これらはいづれも、時に四、五人ぐらゐしかゐないやうな見張りの哨兵から端を發したものであるが、時が經つにつれて、この哨兵だけでは不足になつて來て、ドゥエとポゴビとの間の一ばん大きい岬に、有望な、それも家族持ちの移住囚を移住させることに決められたのである(一八八ニ年)。
これらの村を建てゝ、そこに哨兵線を張つた目的はと言へば―、「ニコラエフスクから、こゝを通過して行く郵便物や、旅客や、犬橇馭者たちに、道中の避難所と安全とを保つ可能性を與へしめ、脱走囚並びに、自由販賣禁止のアルコール類運搬にとつて唯一(?)の、可能な通路となつてゐる海岸線に、全般的の警備を設けるため」である。
海岸の流刑地への道路といふものは未だなくて、通行は、干潮時に、海岸傳ひに徒歩によるほかはなく、冬は犬橇による。ボートや小蒸氣船による往來も可能ではあるが、これは、極く上天氣の時に限る。
そして、これらの村々は南から北へかけて、次の様な順序で並んでゐる。
ムガーチ(※アレクサンドロフスク・サハリンスキーの北部沿岸にある村)。住民三八。
―男二〇、女一八、戸數一四、耕作地は全部で一二デシャーチナ近く持つてゐるが、既に三年來、穀類を播かずに、全部の土地を馬鈴薯用にしてしまつてゐる。
戸主一人一人は村の建設當時から分割地に住みついてゐて、うち五人は既に農民の身分になつてゐる。収入のいゝ仕事があるらしく、百姓連が焦つて本國に歸らうとしないのも、それで説明がつく。
七人は、犬橇の馭者をやつてゐる。つまり、犬を飼つてゐて、冬場はこれで郵便物や旅客を運ぶのである。
狩獵を生業としてゐるもの一人。漁業については、一八八九年の監獄局本部報告書の中には述べられてあるが、こゝでは全く行はれてゐない。
 
港湾部の犬橇輸送は拡大し、十数年後の記録では下記のようになっています。
 
アレキサンドルスキー附近、コルサコフ附近、ルイコフ附近には、夏の末から秋の初め迄で三官三頭曳の客馬車が動いて居る。冬は無論馬車は通ぜず、數頭又は數十頭に曳かせたる犬橇が走つて居る。
この犬橇はなか〃愉快なもので、韃靼海峡の氷結した時などは、婦女子小兒すらそれを走らせ、數里の氷結せる海面を渡つて對岸沿海州に行く事も屢々ある。
 

『樺太大觀(明治38年)』より

 

北サハリンの犬橇

 
とあるニヴフの集落ではブルドッグが飼われていました。この村にはロシア人流刑囚も居住していましたが、「ブルドッグ」がイングリッシュ・ブルのことなのか、そうであってもどのように持ち込まれたのかは不明です。
当時の帝政ロシアにブルドッグがいたのか?と思われるかもしれませんが、日露戦争で捕虜になったロシア軍将校がブルドッグを連れていた記録などもありますし、いたんじゃないですかね?
 
やゝ暫くたつと、腐つた魚の臭ひが強く鼻をつき出した。現在のウスコーヴォ村にその名を與へるに至つたギリヤーク人の村、ウスク・ヴォへ近づいたのである。
川岸では、ギリヤーク人とその妻子やブルドッグなどに出會つたが、往年、今は亡きポリャーコフがその到着によつて喚び起したやうな驚きの影は見當らず、子供も犬も平氣でわれ〃を見やつてゐた。
ロシア人の村は岸から二露里のところにあつて、このウスコーヴォの風景はクラースヌイ・ヤルに似通つてゐる。
 
役人のペットは一頭のみ登場。全体から見て、愛玩犬はごく少数だったのでしょう。
 
ウラヂーミロフカ村には、移住監督のヤ氏が細君の産婆と一緒に住んでゐる官舎に附属して、農園(フェールマ)があるが、土地の移住囚や兵卒たちはそれを、フィルマ(屋號の意)と呼んでゐる。
ヤ氏は自然科學のうちでも、殊に植物學に興味を持ち、植物の名は必らずラテン語で呼ぶことにしてゐる。だから、例へば、自分の食事に隠元豆が出ると、彼は―「こりや―ファセオラスだな」といふし、自分の黑犬にはフェーヴァス(favus 白たむしのこと)などといふ呼び名をつけてゐる。
 
猟犬、愛玩犬、在来犬、野犬、アイヌ民族の犬がハッキリと区分されていた北海道犬界と違い、同時代のサハリン犬界は何だかアヤフヤです。
「樺太の猟犬はヒグマ狩り用」「毛皮獣の捕獲は猟犬を使わない罠猟が中心だった」みたいな記述もあり、流刑囚は監獄外での居住が認められていたので警備犬も必要なし。たとえ脱走しても島外へ出られませんし。
交通機関が未整備ゆえ犬橇に適した犬種しか必要とされず、流刑地にわざわざ洋犬を連れてくる移住者も滅多にいません。日本犬界のような畜犬行政によるコントロールすらなかったと思われます(サハリンどころか極東エリア全体の狂犬病対策も未整備で、明治29年には狂犬病予防注射を受けるためにシベリアからロシア人2名が来日しています)。
島外からペットを持ち込めるのは官僚や軍人くらいで、その数も少なかったことが樺太在来犬の交雑化を防いだのでしょう。
 
シベリアで撮影されたロシア人のペット。これらのロシア犬がどれくらい樺太へ持ち込まれたのかは不明です(大正11年)
 

【南樺太の犬たち】

 
犬橇文化となじみのあるロシア人はともかく、犬の用途といえば猟犬や闘犬しか知らなかった和人にとっての樺太は異世界でした。特に、橇犬を多頭飼いするニヴフとの接触はナカナカ大変だったようです。
ニヴフの集落を訪れた和人は、橇犬の大群から手荒い歓迎を受けました。1808年に樺太を探索した松田傳十郎は下記のように記しています。
 
海岸より岸を見渡す處、入江見ゑしゆへ、其所に舟を附け、番人萬四郎義召連れ上陸し、砂路二丁程を行した。
入江の際に出たり。此所に山靼家三戸あり。いづれも庭上に犬を飼置く事、一軒に二十疋或は三十疋飼置き、此犬ども傳十郎を見るより聲を發し、三軒飼置犬ども一時に吠へ出し、其聲に土人外へ出し處、傳十郎幷萬四郎兩人を見て仰天したる氣色にて、大勢集、何やら云といへども一向向らず。
中には子供抔は泣きながら家に這 入り、暫く騒動し、船は右の砂崎を廻して入來る故、未だ來らず、流木の有しを幸ひに腰を懸け、休居る故、土人大勢來りて取巻き、銘々何やら申せども言語さらに分らず。
暫くして一人夷言(アイヌ語)を遣ひしゆへ、右のものに尋る處、此所はノテトと云所のよし。山靼家の方に指さして、ニシツパ(役名:旦那の意味)、チセ(家と云事)、アルキ(行と云事)と、夷言にて申に付、右のものを案内にして行し處、男女とも大勢此家に來り、銘々何をか咄すといへども、一向通ぜず。
 
松田傳十郎『北夷談』より
 
数十頭~100頭近くの犬から一斉に吠えられるというのも滅多にない体験でしょう。
……と思いきや、それから約100年後に松田伝十郎と同じ体験をした人がいます。
 

日露戦争も終盤となった明治38年7月、カラフト南部のメレイへ上陸した海軍陸戦隊に続き、陸軍第13師団がロシア守備隊と交戦しつつ北上を開始します。

南部作戦完了後、こんどは北部攻撃軍がサハリン中部のアレクサンドロフスクへ上陸侵攻。ロシア軍主力の南下を阻止すると共に、樺太南部の占領を確実にしました。

同年9月にはポーツマス条約が締結され、樺太島は北緯50度線を境に日本とロシアが分割統治することとなります。
 
樺太に設置された日露国境線の標識(南樺太側)
 
「新領土獲得!」に沸き立つ世の中で―日比谷焼討ち事件とかありましたけど―さっそく樺太へ赴く人々が現れます。中には勢い余って、ロシア領に上陸するケースもありました。
北サハリンの鉱山を調査するため、とある探検家が小樽を出航したのは同年11月のこと。日露戦争終結直後の無謀な渡航でしたが、上陸した亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)には日本軍が駐屯していたので、比較的安全だったのでしょう。

彼が現地で接触したのは犬橇文化をもつニヴフ族でした(ニヴフの人口は樺太全体で4500人程度、明治38年時点で日本領に居住していたニヴフは37名)。

脇道に逸れますが、北サハリンのカラフト犬に関する貴重な記録なのでご紹介しましょう。

※当時の差別的表現につきましては、原文のまま引用しております。

 

シベリア出兵における尼港事件の保障占領として、北サハリンには大正11年まで日本軍が駐屯していました。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーの日本人街にて、日本兵が連れているのはカラフト犬の仔犬でしょうか。

 

亜港へ上陸後、雪が降り始めるのをみた探検家氏は「冬眠前のヒグマを狩りたい」と現地の日本軍へ相談。

樺太占領直後で大忙しの日本軍に熊狩りを手伝う余裕はなく、「ギリヤーク族に猟犬を借りたらいい」とロシア人ガイドを紹介されます。

 

其日の正午頃、海岸近い山の麓にあるギリヤクの部落に達した。

實をいふと吾輩は此處で適當な獵犬を手に入れたいと思つたのだ。アレキサンドルスキではK大尉が心配してくれたが、どうも適當なのがなかつた。何しろ講和談判結了後(※ポーツマス条約のこと)で、陸軍當局は非常に多忙を極めつゝあつた場合だから、とてもアレキサンドルスキで手に入れるのは困難だと思つたのでさてこそ、ヒヨドル(※ロシア人ガイド・日露戦争で刑務所から釈放された殺人犯)と共に先づギリヤク部落を訪れたのである。

 

天風子『猛犬義犬奇談(明治42年)』より

 

探検家氏が目撃したニヴフの橇犬については下記のとおり。ほぼ立耳巻尾の中型タイプで統一されており、「ニヴフは大型犬を嫌う」という後年のカラフト犬調査記録とも一致します。

 

樺太にはギリヤクの部落、露領沿海州では韃靼人の部落に、それは〃澤山犬が居る。

北極探險家がエスキモーから犬を傭入れて橇を曳かせるのは有名な話だが、ギリヤク人も同じく飼養の犬に、自分等の乗つた橇を曳かせる。それだから十數軒の部落でも、犬はどうしても二、三百頭は飼つてある。

是等の犬の群には必ず二、三頭の大將犬が居る。是は橇を曳くとき一隊の犬の嚮導(リーダー)になつて、雪の上でも氷の上でも駈けずり歩くので、平日の給與が既に部下の雑輩とは異つて著しく贅澤である。

ギリヤク部落の犬には體の餘り大きいのはない。毛色は大抵黑で、耳は尖つて突立つて居る。尾は純粋の日本種と同じく上方に巻いて居る。

性質は頗る獰猛で、知らない人間を見ると、今にも嚙み付きさうに吠える。こんな場合にも例の大將犬は先頭に立つて、齒をムキ出して居る(猛犬義犬奇談)

 

せいぜい集落あたり20~30頭単位かと思ったら、その10倍も飼われていたんですね。ニヴフにとって犬橇がいかに重要だったかが分かります。

しかし、多数の橇犬を飼うためには膨大な量の餌が必要となりました。沿岸部で暮らすニヴフや樺太アイヌだからこそ、豊富な海産物を飼料として調達できたのです(山間部のウィルタは草食のトナカイ橇文化でした)。

 

吾輩とヒヨドルの二人が、後の山から馬を此部落に乗り入れたときには、忽ちの内に犬の猛烈なる包圍攻撃を被つてしまつた。

一疋や二疋ならまだ仕末がよいが、一時に二、三百飛出して吠え付かれたから堪らぬ。オイコラ位では容易に退かぬ。ヒヨドルも困却(こま)つたやうな顔して、稍々もすると棒立ちになる馬の手綱をしかと控へ、何か露西亜語で大きく怒鳴つた。

此聲に驚いたのか十五、六人がゾロ〃と小屋の中から出て來た。そして狂つたやうに吠え付く犬を叱り飛ばした。

顔は其犬の如く頗る獰猛であつた。色の黑い、唇の厚い、鼻の低い、頬骨の高い、一寸見たばかりでは咬み付きさうであるが、性質は左程でもないと見え、吾輩等二人を見ても、別段驚き訝しむ様子もなく、唯無言の儘ニコ〃として居た。

ヒヨドルは其中の酋長らしいのに向つて何か話しかけて居たが、完全に要領は得なかつたらしい。時々兩方共小首を傾けて變な顔をする。

K大尉が「ヒヨドル、ギリヤクの部落に行つたら、土人と犬を傭へ」といふことだけは申付けて置てくれた筈だから、多分それを談判してるのだらうと思ふが、其點は露西亜語もギリヤクの土語も解らない吾輩には、何の事だか更に合點が参らぬ(猛犬義犬奇談)

 

ニヴフにはアイヌのイオマンテと似た熊送りの儀式があり、各家庭では儀式用の仔熊を飼っていました。熊を神とあがめる信仰心を知らない探検家氏は、仔熊を買い取ろうと交渉しはじめます。

 

此時吾輩フト土間の隅に黑い獸が繋いであるのを見た。初めは犬かと思つたが、犬にしては少し様子が變であつたから、其方へ近寄つて能く〃見ると、案外にそれが一疋の熊の兒であつたので、こいつは面白いものを見付けた。錢の有難さを知らぬ土人は、幸い用意のウイスキーがあるから、是と引換へに熊兒を貰つてやらうと思ひながら、中でも物の解りさうな土人に手眞似の談判に取掛ると「徒勞(だめ)だ。それやることならない」と突如として叫ぶ奴があつた。是には吾輩面喰つた。

極北の蠻地に、此明瞭な日本語を聞かうとは、誰しも殆んど思ひ及ばぬことであらう。

吾輩も日本人が此小屋の中に居るのかとも思つて見たが、そんな様子は少しもなくて、軈て十七、八歳のギリヤクが焚火の傍からつと立つて來た。

「貴様はアイヌぢやアないか」

吾輩はアイヌがギリヤクより多く日本に縁故があるので、先づさう訊ねて見た。

「アイヌぢやアない。俺ギリヤクだ」

「此部落のギリヤクか。それにしてもお前何うして日本語を知つとるか」

「ハゝゝゝ、驚いたか」

 

亜港で日本人と働いたことのあるニヴフの少年に通訳を頼み、仔熊の購入を諦めるかわりに猟師と猟犬3頭を借り受けることができました。

 

犬は此部落でも粋を抜いたので、其中の一頭の如きは、前年土人の獨木船(カヌー)が沖合で轉覆したとき、折柄海岸で此有様を見たが、忽ち身を躍らして寄せ來る荒波の中に飛込み、今や溺れんとする一少女の裾をくはへて、無事海岸へ泳ぎ歸つたことがある程の猛者で、他の二頭は其勇敢なる血統受けた若い犬であつたのだ(猛犬義犬奇談)

 

ニヴフの少女を救助するカラフト犬。ブルドッグにしか見えませんが、明治時代の東京の画家に「カラフト犬を描け」という方が無理なのです(明治42年)

 

日露戦争でロシア軍の負傷兵捜索犬に遭遇した日本軍は、大正2年の歩兵学校軍用犬調査レポート作成時までその役割を理解することができませんでした。

ヨーロッパの水難救助犬も明治初期には知られていましたが、その訓練運用マニュアルが邦訳されたのは明治40年代のこと。

探検家氏にとっても、「樺太のレスキュー犬」は珍しいエピソードだったのでしょう

 

露營の地點は密林の木下蔭で、此處だけは雪が繁つた枝に遮ぎられて、地上には積つて居なかつた。斧鉞(ふえつ)未だ嘗て入らざる千古の森とは正に是をいふのであらう。四人の聲と働きに依つて掻き亂さるゝ外、森の寂寞は永久に悠々たるものであるかの如くに思はれた。

天幕の中は焚火が盛だから少しも寒くない。ヒヨドルは吾輩の與へたウオツカを仰顧(あお)りながら、少年を相手に何か愉快さうに話しかけて居る。ギリヤクはウヰスキーをちびり〃飲みながら、三頭の犬に干鱒を與へては其頭を擦でゝ何か言ひ聞かせて居る。

馬は寒さうに天幕の外で鼻を鳴らす。

吾輩はギリヤクの部落で買つて來た毛皮を敷いて、其上にゴロリと横になつた。探險刀と銃だけは枕元に置た。スワといへば直ぐにも役に立つやうに……。

トロ〃としたと思ふと、けたゝましい馬の嘶きに續いて嚙み付くやうに犬が吠え出したので、吾輩は思はず眠りから醒めた。

ヒヨドルとギリヤクと少年は、犬の後に續いて天幕を出た。で、吾輩も銃を提げて飛出した。

「何うした?」と吾輩は少年の肩を叩いて訊いた。

「熊です!熊です!」

「何?熊?」

「大きい奴、二疋。ソラ彼處(あそこ)逃げます」

火の付くやうに犬が吠えながら飛んで行く方を指して、少年は吾輩に教えてくれる。

吾輩は彼等蠻人に對し、其視力の點に於て、到底匹敵し得べきでない。從つて殘念ながら吾輩には其逃げつゝあるといふ熊の姿が見えなかつた。

ヒヨドルとギリヤクは暫らくの間、熊の後を追いかけて行つたが、遂に其影を密樹の間に失ひ、頭から雪を綿帽子のやうにかぶつて天幕に歸つて來た(猛犬義犬奇談)

 

翌朝になってヒグマ狩りを再開した探険家一行でしたが、ヒグマは逃げることなく逆襲してきました。文中には「二頭の大熊」とありますが、片方はカラフト犬に咬み伏せられる位のサイズ。おそらく母仔グマを誇張して伝えたのでしょう。

 

軈て森が些(すこ)しまばらになつた處に出ると、急に熊の足跡が亂れて、雪の上を四方八方に走つて居る。そこで吾輩は捜索列を張つて進むことにした。

吾輩は少年と犬を一疋、ヒヨドルとギリヤクは各々犬を一疋宛連れて、互に三方に向つて散つた。

吾輩は號笛を一個宛ヒヨドルとギリヤクに與へて、危急の場合若くは獲物のあつたときに吹くことを命じて置いたが、ものゝ二時間も經つに何處からも號笛の音が起らない。で、吾輩心中聊かがつかりしてると、三十米突ばかり前を嗅ぎつゝ進んで居た犬が、突如として立止まり、きつと耳を聳てゝ何物かを聞取らんとする様子であつたが、一聲高く吠いると共に、頂界線を一目散に麓の方に下つて行つた。

吾輩は急に胸が轟いた。で、少年を促して其後を追ふて行くと、遥かの彼方の木陰にギリヤクが牡牛程もあらんと覺しき大熊に取挫かれて仆れて居る傍に、之は又意外なるかな、彼の引連れた犬が他の一頭の大熊を地上に咬み伏せ、今や死力を盡して格鬪最中である。

吾輩は直ぐにも發砲しやうと思つたが、距離が遠過ぎるので、發砲を思止まり、尚ほも其方へ駈けて行くと、吾輩の連れた犬が、ギリヤクに咬み付いて居る大熊に飛び掛つて行つた。

此間に仆れたギリヤクは起き上らうとしたが、重傷を負ふたかヨロ〃とよろめいて又も地上へバタリと仆れた。

二疋の犬はワン〃森を搖がすやうに吠えつゝ戰つた。

此時ヒヨドルの連れた犬が、此聲を聞き息せきゝつてやつて來た。そしてギリヤクに又も咬み掛らんとする大熊を襲ふた。

 

巨熊は土人を喰はんとし、猛犬は巨熊を嚙倒す。この一大活劇は樺太北方に起りし事實なり。

 

曩きにギリヤクの仆されたときに、一方の熊を引受けて戰つた犬は、漸くのことに其敵を動く能はざる程度にまでして置くと同時に、他の二頭の犬が一方の犬を拒(ふせ)ぎつゝある間に、人事不省に陥つたギリヤクの長い防寒着の裾をくはへてヅル〃と安全な場所へ曳きづり行き、更に引返して二頭の犬に加勢し、尚ほも其猛威を揮ふて止まなかつた。

斯くする内に吾輩は適當なる射距離に近づき來たが、此日の功名を三頭の犬に讓づるために斷然發砲することは止め、其代りギリヤクを抱き起し、活を入れて彼を蘇生せしめた。

其處へ恰度ヒヨドルが駈け付けて、重傷を負ふて七轉八倒する二頭の大熊に絶息(とどめ)の彈丸を一發射込んだ。

三頭の犬は呻唸するギリヤクを圍んで悲しげに鳴いた。

後で聞くとギリヤクは全く不意を襲はれたのであつて、其上に折角の彈丸が不發であつたゝめに、遂に斯の如き目に遇つたのだといふことだ。

併し彼の重傷は其後二、三日にして癒えた。

彼は若し此三犬が勇敢にして義を知ること斯の如くでなかつたならば、當然其場で無殘の最後を遂げなければならなかつたのだと現今でもそれを口癖のやうにいつて居る(猛犬義犬奇談)

 

この作品のイラストを担当した小杉未醒はヒグマやカラフト犬の姿を知らなかったようで、なぜか流氷上におけるホッキョクグマと土佐闘犬の戦いを描いております。これが当時における樺太のイメージだったんですね。

日露戦争を機に、カラフト犬の存在は広く知られるようになりました。

いっぽう「戦争の混乱に乗じてカラフト犬の殺処分がおこなわれた」という話があります。日本とロシアの争いは、カラフト犬にとっても迷惑きわまりなかったのでしょう。

 

鬪犬鬪鶏は小人の樂む所、固より賤むべしとするも、今日の如き志氣痛く振はずして人皆柔弱に流れつゝある時は勇ましき、犬の喧嘩の偶以て壮快ならずとせず。蠻勇と稱すと雖も其の勇あるは總ての勇を失ひたるには勝る。

犬の都たる豊原には一日八合の米を食する贅澤なる犬すらあり。彼れ門を守るを欲せず、又獵犬たる事能はず、而して物を運び人を曳く事をも欲せずして、然も鬪犬で覇を唱ふるに足らずとせば、殆んど生存の意義を失ふ。

寒國の獸毛程高貴なるはなし。寒氣に對する必然の結果として樺太犬の毛皮は多く綿毛の密なる者あり。この故に犬皮一枚にして上なる者は十圓に値すべし。

嘗て樺太占領の際、主人を失ひたる多くの犬は原野の間を徘徊したりき。利に敏なる某は一々之を撲殺して物資の乏しかりし時に其の肉を賣り、其の所得數百圓に上りしと云ふ。

然も豊原、大泊の犬を飼ふや此の如き殘忍なるを目的とはせず、彼門を守らず、又獵犬なる能はざるも可なり。冬季小なる橇を作り米穀、雑貨店の如きは之に米又は石油を積みて引かしむ。其の用を爲す事大なるも、是が爲めに食する米は大人以上なりと。

要するに犬の都の畜犬は、亦是れ一種の道樂ならずとせず。

 

西田源蔵「犬の國(大正元年)」より

 

犬

樺太西海岸の日本人漁労者たちとカラフト犬の仔。積み上げられた米俵は越冬用の備蓄です(明治38年)

 

【南樺太の犬橇文化】

 

サハリンがロシア領だった時代も、宗谷海峡が鉄のカーテンで閉ざされていた訳ではありません。
日露戦争以前から樺太には日本領事館が設置され、漁業関係者や商人が往来していました。現地の日本人も樺太アイヌの犬橇をみならい、カラフト犬を荷役に用いていたようです。

先住民の生活手段であった樺太の犬橇は、日本統治下において変化を遂げます。

やがて和人も犬橇を使い始め、旧来の多頭曳きから少数、または単頭曳きへ、さらに橇すら無くした犬スキーも登場。冬季の手軽な移動手段、またはレジャーにも応用されていきました。

和人には、冬しか使えない犬橇のために多数のカラフト犬を飼育するような思考はありません。宗教的にも犬を必要とするニヴフと違い、犬との関係が希薄ゆえにコンパクト化を選んだのです。馬橇の普及や樺太庁鉄道課による鉄道敷設により、犬橇の需要もなくなっていきました。

犬橇が復活するのは、軍馬徴発によって馬橇輸送が減少した戦時中のこと。ニッチ産業として、犬橇文化は辛くも延命できたのです。

 

帝國ノ犬達-漁犬
樺太におけるカンカイ(コマイ:タラの一種)漁の様子。周囲のカラフト犬は、漁獲物や漁具を運搬するために連れて来たものです。
 

樺太の東海岸、殊にトンナイチヤ附近に於いては紅魚と青魚の漁獲必ずしも土人の口を支ふるに足らずとせず。然も通年彼等の貧窮しつゝある者、一に犬飼病の慢性に因らずんばあらず。道樂は斯る種類の社會にすらありと見ゆ。

樺太犬の土人に須要なる事前述の如し。然らば之を飼ふの一種の道樂と云ふは不可ならずや。答へて曰く不可ならず。

未開時代に於ける土人の生活にはアイヌ犬の必要さもありしならん。今日に於ては貂獵の稍巧みなる必ずしも犬を要せず。交通機關の發達せる又必しも犬を要せず。而して年々暖氣を加へつゝある樺太は、又必ずしも獸毛を要せざればなり。

然し本島冬季の犬橇は正に一種の奇觀ならずとせず。獰猛なる犬數頭相連りて狺々として廣漠たる氷原を疾驅す。其の之を御するや目的の地に至らずんば一塊肉をも與へず。飢えたる此の猛者の狂ひ走る様は、何れか狼の群走するに異ならんや。

一人の飼主を乗せたる橇は十數頭の犬に因りて矢の如く曳かる。其の疾き事飛鳥の如し。富内より大阪に至る間、山河凡そ十八里。然も僅に一日にして達す。彼等は狂奔せり。主人の指揮ある外眼中何物も有らざるなり。是故に中途一の旅行者が端なく是と會する時、指揮者が撕(てい)しを過るに於ては、忽ちにして嚙み殺さる。

嘗て大谷より榮濱に至る犬橇の群あり。大谷驛逓主の頗る親切ならざるを怒れる犬橇の主人は、路頭に驛逓主の牛數頭徘徊するを見て敢て先導犬を撕しする所なかりき。是故に一頭の牛は忽ちにして嚙み倒され、雪上紅血の淋漓たる者ありき。

 

西田源蔵『樺太風土記』より

 

 

此の如く強猛なる犬は早くより共同生活に馴らされたり。是故に仲間同士の喧嘩の如きは殆んど之を見る事能はず。

遺傳の如き動物性に大なる影響を及ぼす者は有らず。雪の都、火の都、酒の都たる豊原大泊は更に犬の都たらずんばあらず。

到る處の巷く衢(ちまた)に大小の犬數十群を爲して横行するも、嘗つて喧々囂々として血を流し肉を咬むが如き事あらず。

此の如きは偏に共同生活に慣れたるアイヌ犬の血脈を傳承せる爲めならんとせんや。

樺太犬はアイヌ犬の外、西伯利亜を經て多くの犬族雑居したり。是故に純粋なる者少なからざるも、雑種も亦多し。而して各々其の特性を失ふ(樺太風土記)

 

樺太の家屋は畜犬をして門を守らしむべく餘りに單純なり。斯る都に於て盗を爲さんとする者誰か犬に咎めらるゝの迂愚に出でんや。是故に其の吼え方に於てサガレン犬の拙なるが如きは稀なり。

吼えず爭はざる樺太犬は、或る意味に於ては殆んど猫の如し。彼等は猫と爭はざるのみならず、常に頸を並べて相眠る。此の余 惠恵に因りて彼等は冬季中座敷の中を横斷闊歩する事を得。

大泊の如き、豊原の如き小犬を飼ふ者、寒中戸外に放畜する事能はず。且つ清浄塵なき雪路を走る樺太犬は座敷に上すも甚しき不潔有らざるなり。是故に彼等は常に主人の褥に入りて眠る事を許さる。

旗亭の大なる者にして主婦に犬を愛するあり。彼れ常に室内に起居して甚しきは客の座敷を横行す。小なる者は怒すべきも、三尺の大犬が宴席の膳に鼻を延ぶるが如き何人にも氣持善きものに非ず。然も客の之を怪まざるのみならず、旗亭の主婦は却つて之を得意にす(樺太風土記)

 

南樺太における犬橇の運賃や定員は下記のとおり。最大4人乗り、4kmごとに1円とのこと。
 
犬橇は冬期、荷物を運搬するのみならず、旅客をのせて長途の旅をするには、是非とも缺くことの出來ない交通機關である。追人の他に米三俵、旅客ならば三人を定量とする。賃金は一里一圓の割である。
近年はしかし、交通機關が便利になるにつれ、犬橇を用ふることも次第に尠なくなつて來たやうであるが、なほ交通の不便な地方では絶對に必要なのである(秦一郎)
 
犬橇の走行距離は一日当たり40~80kmだったようです。特別な場合にはその数倍を走ることもあり、先導犬の頭にはセタ・キラウ(犬の角)という円錐状の革飾りを装着しました。
 
樺太犬の勞役の任務は何としても輓曳が第一である。犬體の大小によつて頭數に多少の増減を免れないが、普通一人乗なら五六頭、二人乗なら十頭内外を聯繋して犬橇一台の一日行程は約三十里と云ふ所である。
緊急を要する場合の強行では、俊足のみを選抜して編制すれば、一日五十里乃至六十里の踏破は至難ではない。新間又内路から榮濱まで、敷香から馬群潭又眞縫まで、敷香から露領ルイコフまで等一日突破の實例は幾何でもあるのであるが、之は夜中の十二時一時に出發して、到着も夜中の十一時十二時に及ぶのである。
 
オタス教習所教諭・川村秀彌『樺太犬雑爼(昭和13年)』より

 

伝統的なニヴフの犬橇(大正8年)
 
当然ながら、文献で伝えられるのは伝統的な犬橇が中心。しかし南樺太の史料には、さまざまなタイプの犬橇が登場します。
「量産型犬橇」が存在しなかった以上、個々の橇には作り手の意向が反映されていたのでしょう。

個人的な試作品だったのか、地域や用途別に派生型が存在したのか、時代を追うごとに近代化改修されたのか。今となっては謎ですが、それらを見比べて当時の犬橇風景を想像するのも楽しかったりします。

 

帝國ノ犬達-犬橇

大泊港の犬橇。周囲にはさまざまなタイプの橇が並んでいて、たいへん興味深い写真です。

 

帝國ノ犬達-樺太
ヌソを簡素化したような軽量犬橇。伝統的な橇では前方へ傾斜する「ムエヘ(衝突防止バンパー部分のこと:Brush Bow)」が垂直構造になっています(秦一郎・昭和11年撮影)
 

犬橇

白瀬矗の南極探検隊も使用した多頭曳きの荷役用犬橇。ヌソやトナカイ橇とも違う、頑丈な構造となっています(大正8年)

 

アイヌ集落で撮影された荷役用犬橇。ニヴフも同型の橇を使用していました(大正8年)

 

木材運搬用の犬橇(樺太林業界では馬橇、トナカイ橇、人力橇も活用されました)

 

 

単頭曳き一人乗りタイプ。重心が高くなるものの、手荷物くらいは積載できました。

 

帝國ノ犬達-スキー

 

スキー犬

レジャー用の犬スキー。南樺太にもスキー愛好家は多く、中にはこんなことを試してみるスキーヤーもいました。

江戸時代の文献によると、ニヴフ族も簡便な雪中移動法として犬スキーを用いていたとあります。

 

【南樺太のペットたち】
 
ロシア人や和人が樺太島に洋犬が持ち込むようになると、ペットの数も増加しました。こうして「使役犬」と「愛玩犬」が区分されるようになったのです。
珍しいものとしては、サハリンから北海道へ渡った「ポーランド産の狆」の記録があります。

このポメラニアンらしき小型犬は陸軍第七師団の横地長幹連隊長が入手、嘉仁親王(後の大正天皇)へ献上されました。

 

旭川で、殿下(※嘉仁親王)に献上した二匹の犬は、日露戰争前、北カラフト守備隊の露國將校が飼つて居つた純白の名犬であつた。

豆犬とも稱すべき小型の犬で、身長僅かに一尺あまり、毛の長さ八寸、父(横地長幹旭川連隊長)はポーランド産の狆だと申してゐました。

如何なる經路で此犬が旭川に來たのかは不明だが、或日父が市内を散歩していると、奇麗な仔犬が二匹チヨロ〃歩いてゐるのが、犬好きの父の眼にとまり、直ちに其飼主に交渉して手に入れたとの話を聴いて居る。父は此狆を非常に可愛いがり朝夕懐に入れて愛撫した。時には左右の掌上にのせ、世界一の小さな名犬だと戯れてゐた。毛が深いので夏期になると如何にも暑苦しさうに見えるので、頭部を除き、全身の毛を短く刈り込んだので、小さなライオンの姿になり、旭川ではライオン犬だと評判された。

 

福原八郎『横地鬼將軍と動物愛護』より 横地碌夫氏の証言

 

第七師団長の上原勇作も愛犬家であり、南樺太や北海道で入手した犬たちをいつも引き連れていました。それゆえポーランド産の狆についても覚えていたのでしょう(他には樺太で入手したテリアも飼っていたそうです)。

 

上原師團長の犬は揃ひも揃つて妙な犬ばかりであつたが、一匹トヨといふて、黑色のテリアの雑種で、毛の長い足の短かい小さな犬が居つた。このトヨと名づけたのは、將軍が、樺太の豊原から連れて来られたから豊と名づけられたので、仲々藝を澤山上手にやる犬であつた。

 

陸軍少将大場彌平「犬好きであつた上原元帥(昭和8年)」より

 

明治41年に陸軍第七師団旭川大演習を天覧した嘉仁皇太子は、上原勇作師団長から「横地連隊長の小犬」の話を聞き、実物を見せて貰いました。その可愛らしさと敏捷さを褒める皇太子に、横地連隊長は「御意に召されましたならば、二頭とも献納申上げたう存じます」と申出ます。

「二匹ともいなくなつたら、お前の子供達が定めし淋しがるであらう。夫れは氣の毒だ」と遠慮する皇太子に、「子供等は愛犬が殿下の御側にあがりまして出世をするのを無上の光榮として非常に喜んで居ります」と答えたため、献上が決定。

「ソーカ、ソレナラ二頭とも東京に持ち歸り、一頭は御母君(※美子皇后なのか柳原愛子なのかは不明)に御土産に献上しやう」ということになったのだとか。

サハリンから北海道へ渡り、更に皇室へ献上された「ポーランド産の狆」について、その後の消息は不明です。

 

南樺太で撮影されたポインター(大正8年)

 

外地犬界史で最も困るエリアが南樺太。大量の記録が残っている朝鮮半島や台湾と違い、「樺太先住民族と犬橇文化」が中心で「一般家庭のペットの記録」がなかなか見つからないのです。

人と犬の関係が最も親密だった南樺太において、犬の記録がない不思議。

モチロン樺太関係の文献を片っ端から調べれば何かしら発見できるはずですが、ここは日本犬界史のブログなので樺太史に深入りするつもりはありません。

そういうワケで、南樺太のペットたちについては画像を羅列するのみにとどめます。

 

ワンコと一緒に戦争ごっこ中の子供たち(南樺太にて、昭和14年)

 

敷香(ポロナイスク)近郊のオタスで飼われていたニヴフのカラフト犬たち(オタス教育所の川村教諭撮影)

 

珍内(クラスノゴルスク)にて、道路の往来を妨害するワンコ

 

豊原(ユジノサハリンスク)西一条通りにて、街灯に繋がれたワンコ

 

同じく豊原旧市街にて、民家の玄関先にいる仔犬
 

豊原の樺太神社を参拝するワンコ
 

豊原近郊(豊栄郡)の小沼農事試験場にて、小さく牧羊犬が写っていますね

 

こちらも小沼農事試験場の牧羊犬

 

真岡(ホルムスク)南濱町にて、電信柱の桶(防火用水?)の横に犬がいます。

 

大泊(コルサコフ)栄町の十字路を散歩中の女性と小型犬

 

 

大泊停泊中の明大丸から積荷を運ぶ犬橇

 

戦前のペット誌出版は東京の「犬の研究社」と大阪の「狩獵と畜犬社」が中心だったので、北や南へ行くほど記録が少ないのは仕方ありません。中央に取り上げられることなく消えていった畜犬文化がどれだけあったのか。それを考えると大変残念です。

昭和20年に南樺太が崩壊したことで、南樺太犬界の記憶も断絶してしまいました。

戦後犬界においては「忠犬ハチ公以外の犬に語る価値はない」という傲慢な思考が広がり、名もなき犬たちの存在は抹消されたのです。

 

【樺太犬界の崩壊】

 

昭和に入ると、北海道・樺太地域でも続々と畜犬団体が発足。冷涼な気候とフィラリア症の少なさを見込まれて、戦時中にはシェパードの飼育も奨励されました。
このような「異国の犬」の進出は、南樺太犬界に深刻な影響を与えたそうです。カラフト犬は洋犬との交雑化によって激減。日本犬と同じ運命を辿り始めました。
闘犬の流行が秋田犬保存運動の端緒となったように、消えゆくカラフト犬の保存運動も土佐闘犬へのカウンターとして始まりました。
 
川村氏は又、非常な愛犬家で、氏の教育所にも樺太犬が數頭飼つてあつた。氏は又、土佐犬の牽引力非凡なのに着眼され、現に氏のところにも土佐犬と交配させて出來た樺太土佐雑種を數頭飼育してあつたが、鬪争性があるため、あまり橇曳には適せぬやうに言はれてゐた。
敷香町あたりでは近頃、この土佐犬を飼ふことが流行し出し、土佐犬に車を曳かせたり、鬪犬用の曳綱で引いて歩いたりしてゐるのをよく見かけたが、私は土佐犬が結局、鬪争性に富んでゐるのと、古くからこの土地にゐる樺太犬保存の目的からしても、かういふ犬の入り込むことの危險を氏に説いたところ、氏も私の意見を深く諒解されて、樺太犬保存の運動を起さうと言うてゐられた。
 
秦一郎『樺太犬私見』より
 
まさか、敷香で土佐犬ブームがあったとは。
日本統治時代において、南樺太における犬種の独自性は大きく損なわれてしまったのでしょう。距離的な問題もあってか、日本犬保存会の運動が実を結ぶことはありませんでした。
 
このまゝで進めば、樺太に於ける各種の犬は絶滅に瀕するほかはないであらう。それといふのも、土地の人々があまりにも犬に對して無智の結果である。
彼等の多くは唯犬を橇用として使ふことを知つてゐるのみで、何等系統的に之を調べるやうな努力をしないのである。又、その方法も必要ないからであらう。土地の古老などといふものは、唯古い昔話をするだけで、その記憶とてもどうやら怪しく、しかもまちまちである。唯、犬好きといふぐらゐではかうした眞面目な研究には何等資するところはないのである(『樺太犬私見』より)
 
そして戦時下の樺太犬界については、僅かな記録しか残っていません。犬が迫害された時代、どうで毛皮が狙われたんだろうと思ったら抜け毛の収集でした。
 
敷香町字多蘭部落の多蘭樺太犬保存組合では、豫てから樺太犬の優秀性を活かし、これを今日の勞力不足緩和の一助にしようと計畫してゐた犬市を、同地で開設する事となつた。
樺太産犬は純樺太犬に限らず牽引力に富み、又毛皮も優良なので相當高價に取引されてゐるが、この市開設によつて畜犬熱は一段と昂まるであらうと見られてゐるが、同組合では夏期に於ける抜毛を農漁村の副業として採取せしめ、毛糸の代用品に製造する計畫もしてゐる。
 
樺太日々新聞『敷香の犬市(昭和15年)』より

 

犬の毛皮は満州国産と朝鮮半島産が主流で、温暖な日本の犬皮は著しく品質が劣りました。

戦前には樺太地域から満洲へ犬皮が輸出されていたという逆パターンも記録されています。犬皮の輸入・移入ルートは想像以上に複雑だったのでしょう。

 

樺太犬の皮が防寒用毛皮として滿洲地方に百圓以上に賣れると云ふ、養殖狐と一寸間違はれ相な話がある。樺太廳畜産係東技手は「樺太犬の皮は樺太島内でも良いものは三十圓も四十圓もするから、満洲方面では百圓位はするかも知れぬ。しかも犬は狐や其他の毛皮動物 と違ひ、非常に飼ひ易いから百圓が五十圓でも十分引合ふだらう」と愈よ樺太犬も養殖狐なみに副業飼ひが始まり相である。


『毛皮になる樺太犬(昭和8年)』

 

同時期、内地では犬革(加工革)の統制が犬皮(原料皮)へ拡大されようとしていました。

昭和18年に南樺太が内地編入された頃には、戦況も次第に悪化。昭和20年には樺太混成旅団を再編した第88師団が設置され、アメリカ軍の上陸作戦に備えます。

しかし南樺太へ侵攻したのは、北サハリンのソ連軍でした。

 

昭和20年8月11日、ソ連軍は南樺太への越境攻撃を開始。これに日本軍も反撃し、ポツダム宣言を受諾した8月15日以降も地上戦が継続されます。

逃げ遅れた住民の集団自決、スパイ容疑による朝鮮人労働者の虐殺など、南樺太の各地で惨劇が繰り広げられました。ソ連軍も避難民へ無差別攻撃を加え、多数の民間人が犠牲となりました。

敷香では焦土作戦がとられ、自警団の放火により市街地は焼失。避難民には犬を連れて宗谷海峡を渡る余裕もなく、先住民にいたっては避難船に乗る事すらできませんでした。

 

オタスの杜・ギリヤーク教育所の川村秀彌教諭は、戦後しばらく樺太に残留。その際、彼が研究を重ねてきたカラフト犬の記録も失われてしまいます。

こうして南樺太犬界は終焉を迎え、その存在も忘れ去られたのでした。

 

川村先生の家に灯がともっているのを見て、昔の教え子たちが立ち寄った。川村は準軍服を着て、目を閉じて畳に正座していた。
生徒たちが入っていくと、先生は深く頭を下げて、たった一言発しただけだった。

「許してくれたまえ!」と。彼の妻(※川村ナヲ)も同様に深く頭を下げるのだった。

「私はもはや先生ではない」

川村は苦渋をこめて口を開いた。

「先生というのは決して噓をついてはならないのです。私は皆に本当に罪深いことをしました。どうか一つだけ願いを聞いてください。私は日本人だが、私の人生の最後の日まで皆とともにここに残ることを許してほしいのです」
川村先生は、ようやく1947年に日本へ去っていくことになる。その本国帰還のとき、彼は国境で、オタスの先住民族の生活について書いた原稿を持ち帰ることを禁止されるのであった。

それはノート10冊以上もある18年におよぶ勤労の成果であった。

1956年12月9日、彼は黄泉の国へと旅立っていく。

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 
(続く)