生年月日

犬種

性別 

地域 いづこの國か知りません

飼主 犬口とかいふ奇妙な名前の家族

 

何かにつけ嫌味を言い合わねば気が済まない犬口夫婦。やがて5人の子供や家政婦、はては飼犬「八」の性格までもがひねくれてしまったというお話。

 

上これを好めばといひ升が、主人夫婦の習慣が一家族のものは勿論、僕(しもべ)、下婢(はした)の心ばへにまで關係をおよびした鹽梅は驚く計りでした。

御主人も奥様も下の人たちには随分深切(しんせつ)な方でしたが、何故か、勝手元にも、廊下にも、下女部やにも、いさかひのなひことは有ませんでした。肱の突合ひ、ケンツクのくれ合ひ、眼と眼の睨み合ひは普通の交際でした。

飼犬さへが、流行の風に侵され升(まし)て、人を下に見るほど自分に品格もないくせに、兎角家風に染んだものと見へて、こゝへ立寄る人といふ人に吼ついて嫌はれ升た。

誰でも家に近づくと見れば突然跳びだして、上づツた奇妙な調子で「ワン〃、ワン、ケヤン、ケヤン、ワン」と吼へ升た。

乳やの男にも、酒やの小僧にも、新聞配達にも、八の吼ない人なく、毎日見る人にも一向慣れ親しむといふことが有ませんかつた。

夏になり升と、門の側に坐つて居て、車が來ても、馬が來ても、人が來ても、絶間なしに吼へて居り升た。

肝腎の泥棒よけに吼る折は殆どなく、たゞ人耳に五月蠅がられる計りの様でしたが、ある時、冗談でなく、本當に泥棒が窺ひ寄り升たが、それと見る八は、こふいふ時こそ平常の吼なみを見せねばと、ヤツキとなつて、吼へたとも、吼へたとも、大吼にほえ升た。

然るに家内の人たちは「また八がうるさいこと」とて、耳に手をあてゝ寝反りをして誰一人起出るものさへ有ませんでした。

それ故此時泥棒は大得意で、銀瓶其他金目のものをウントいふほど脊負ひ出し升た。

犬口夫婦は其折の殘念さを語りいで、八を不信用にした最初の張本人は誰といふ問題について今だにいひ爭つて居り升。

 

その後も誰彼かまわず咆えまくった八ですが、遂に怒られました。

 

頃は正月、まだ松のうちのことでした。此家の縁類で、ひとりものゝ某といふが遊びかた〃此家へ参り升た。

丈の高い强さうな紳士で、どこか、氣短かな處が容貌に現はれて居り升た。

此人が停車場から大きいカバンを下げて参り升と、八は例の通り、門まで出迎へに参り升て、ワン〃、ワン〃、ケヤンとお定りの挨拶をして居り升た。

此紳士は犬が大好で、家にはお行儀よく、中〃頼母しい飼犬を持つて居り升た故、八が來る度に泥棒扱ひをするのを不快に思ひ升た。併し人の飼犬をむやみに蹴飛されもしませんから、手を出して懇ろに聲をかけて見升た。

八も此紳士の手から膳部の殘を幾度も頂戴したことのあるもの故、流石に見ず知らずの人と同じ様にそしらぬ顔も出來ぬと見へて、一寸手をなめて、愛相をして見升た。

然るに紳士が家にはいらうとして、歩みかけ升や否、踵について、ワン、ワン、ケヤンワンと吼へたけつて居り升た。

此時紳士の癇癪がどこからか、ムラ〃と湧き出して、何とも治め兼ねたものと見へ、手早にステツキで八を撲ふとすると、逃げ足の早い八はピヨイト跳びのき升た。己れ逃して堪るものかと、思ひ直す暇もなく、紳士は手に持つたカバンを投げつけ升た。

中に破(こわ)れものがあつたかないか、兎に角、カバンの角が丁度八の横腹に中り升て、臺處の方へケヤン〃叫びながら走つて行升た。八は此後決して再び此紳士には吼へませんかつた。

此紳士は八の處業を嫌がると共に、犬口一家の互に吼へ合ふ様な擧動を一際快からず思ひ升た。

 

若松しづ子「犬つくをどり(明治26年)」より

 

この紳士に諭され(半分は脅され)た子供たちは嫌味合戦の不毛さを悟るのですが、両親だけは相も変わらず……という結末。

八はカバンをぶつけられ、台所に寝ていたら腹立ちまぎれに蹴とばされと、小説内で散々な目にあっております。