明治31年にドイツ租借地となった山東省青島。そこへ赴任したドイツ人警官・アントショヴィッツは本国からシェパードを持ち込みます。
アントショヴィッツ巡査の警察犬は繁殖を重ね、やがて「青島系シェパード（青犬）」と呼ばれる一族を形成しました。
大正3年の青島攻略戦を機に青犬は日本へ渡来。昭和3年の日本シェパード倶楽部設立により、ジャーマン・シェパードの大流行が始まります（当時は青犬が主流）。
しかし満州事変以降にドイツ直輸入個体が増加すると、「ドイツ直系」で箔付けしたい日本シェパード界は青犬の切り捨てを画策。黎明期は散々世話になった恩を忘れて「青犬は雑種だ」などと黒歴史扱いし始めました。
そして昭和12年の青島在留邦人一斉退去事件により、青島のシェパードは全滅します。同時に青島犬界も忘れ去られ、青島攻略戦を軸とする青島系シェパード否定論が流布されていきました（21世紀になってもこの主張は幅を利かせています）。
青島犬界が消滅した後も、戦地では青島から出征した青犬たちが戦っていました。
日中戦争が始まった頃、それまで青犬を否定していた日本陸軍や日本シェパード犬協会が意外な評価を下しています。
ショウドッグとしてカッコいいけれどデリケートなドイツ産よりも、地味ながらタフな青島産が作業犬として優れていたのでしょう。
昭和10年には青島シェパードドッグ倶楽部も帝国軍用犬協会に合併され、青島犬界の貴重な記録は失われてしまいます。
それに便乗し、日本犬界では青島系シェパードの否定論が蔓延しました。
結果として、日本シェパード犬界は自らのルーツすら辿れなくなったのです。
【日本陸軍歩兵学校による青犬の評価】
系統的希望
前述二件を着眼に、從來軍用適種犬の檢討を實地研究致しました結果、犬種別意見は他の條件（飼育管理等）を考慮する必要あり之を略しまして、シエパード犬のみに關する意見を申しますと、率直に、青島犬が最上の様に考へられます。
此の事は私個人の淺い經驗より、偉大なる胸部骨格、良好なる角度等、SVが改良したる今日のシエパード犬に學理的にも觀賞的にも、又作業犬としての理想犬なりとし、強烈なる執着を以て歩校の本職に参りました所、依然として青島犬の存在に一驚し、之が蕃殖に理想的タイプを有する主流犬の整備に努力致しました。此の間、特に皆様の御援助に預りましたことを感謝致します。
又當方としては私の周圍の者より依然として青島系支持の意見を受け、之を學理的に説得することも一仕事でした。
然し乍ら、今日に至り幾多の經驗（數的・系統的）に依り耐久力稟性、飼育管理、訓練等に亘り試驗の結果は、彼等の云ふ青島系に軍配を擧げざるを得ないのです。
本件は犬界の爲には重大なる問題であり、幾多の經驗と云ふも未だ足らざるを恐れ、輕々に發表すべきではないと存じましたが、特に眞劔に作業犬の研究を早くより着手せられたる先輩多きJSV會員諸賢より個人的御注言あらば、之を更に實行に依り研究致し度希望する次第であります。故に率直に申上げました。
然乍ら青島系の缺點は御承知の如く、祖犬不明の爲め蕃殖上の基礎薄弱で、以て直ちに之が蕃殖に着手するは一考を要します。
經驗深き眞劔なる蕃殖者は此の點に關聯して、蕃殖を再檢討して戴き度いと考へるのであります。SVのスローガンと現在迄に輸入せられる名犬のタイプが合致するものなりと獨人が申すならば、疑念を抱かざるを得ません。
彼の理論的審査標準と作出の結實は實際に適する様には思はれません。實役には重くして前述二着眼に於て蕃殖上考慮する點ありと存じます。
某優秀性能犬を以て、その價値を論ずるは危險を伴ひ、又公平を欠くを以て論據をパーセントに置くを要し、且軍事的立場に於て之を必要とします。私の意見は全く軍犬として價値あらしめ、或は使役犬的見地に於けるもので、展覧會場裡に於ける愛犬の優越感を度外視致します。
尚、積極的に要すれば審査標準若くは規定の改善なくば使役犬より觀賞犬若くは商品犬を得んとする弊に至るであらうことを恐れます。
本論亦一理論でしかあり得ないかも知れませんが、誰か正直なる原産地に於ける軍用、又はその他の實際的作業に從事しある彼等の血統を調査し、その系統を御示し下さらば確かに良い参考になると思ひます。
陸軍歩兵学校軍犬育成所・柚木崎好武大尉「軍用傳令犬としてシエパード犬に望むもの（昭和13年）」 より
【日本シェパード犬協会の評価】
犬種の別に從ひ、或はシエパード犬同士の間に於てさへも、其の速歩に或る種の差のある事は、吾々と雖も感じて居たし、考へても居た。
併し誰一人之を科學的に研究した人は無かつた様である。
吾々はシエパード犬の歩容判定に關する獨逸の文献と、優秀な展覧會成績を有する輸入犬の歩容とから、S犬の歩態は斯々であり、斯々でるものが優秀であると盲目的に確信し、吾々の審査眼を決定して了つて居た。從つて更に進んでの研究の必要も認めなかつたものの様である。
從來でも何故シエパード犬は速歩に於て斜行するのであらうか。
牧場で働く牧羊作業犬は、種犬に比して長脚が多いのだらうか。等と云ふ疑問は數限りなく在つたのであるが、要するにシエパード犬の歩容はさう言ふものだと言ふ風に簡單に片付けて了つて居た傾がある。
然るに今回シエーメの論文に據つて犬の歩容の運歩に實に澤山の種類のある事を知つて、呆然自失する程の驚きを感じた。シエパード犬の理想的歩容と今迄考へて居たものが少くとも耐久力と言ふ點から見て、必ずしも理想でなかつた事を知つて、度々S犬の審査に立つた事のある私は全く穴あらば這入り度き氣持ちである。
理想的な自然速歩の犬に對して歩度の伸張性不足と言ふ様な判定を下して居たのではないかと言ふ不安がひしひしと胸に迫つて來る。
大型のシエパード犬と一緒に走つても平氣で速歩で續いて行く柴犬の事が頭に浮んで來る。
北海道のアイヌが非常に尊重して居るヂミチ馬（地道馬？）が大きな速歩馬の華やかな運歩に比して、見た眼は誠に惡いが長距離行進と成ると必ず勝つて了ふと言ふ話が思ひ出されて來る。S犬の研究の範圍が如何に廣く深いかをまざまざと見せ付けられて、自己の努力の不足を痛感する。
過日京城支部の花房英一氏（※ソウル・ケネルクラブの花房氏は、JSVソウル支部と協同で帝国軍用犬協会朝鮮支部の立て直しを終えたばかりでした）から面白い通信があつた。
夫れは、北支の山獄戰に参加して居る軍用犬シエパードが落伍して足手纏ひと成つて困る。
只使へるのは所謂青島型の犬だけである。故に今後青島系の犬の蕃殖を試みて大いに研究して見ると言ふ意味のものであつた。
軍用犬として第一戰線に連行されて行つて居る犬であるから、稟性の點で問題が生ずる筈はないのであるから、其の落伍の原因が何處に在るのか私には解釋が附かなかつた。
然るにシエーメの論文を讀んで夫れは兩者の運歩の差に在るのではないかと言ふ疑問を抱くに至つた。長年の間、都會で飼育され、平坦なアスフアルトの道のみを走つて居る現代のシエパード犬が、山野の不正地帶を走るに際し、弱點を現はす事はあり得る事の様にも考へられる。
私の此の疑問が當つて居るか否かは別問題として、實戰を控へてシエパード犬の再檢討が叫ばれて居る今日、一日も早く此のシエーメの論文を皆様に御紹介するのは我が編輯部の義務である
新宿中村屋社長・相馬安雄（昭和12年）