生年月日 昭和元年
犬種 ロシアンシープドッグの雑種
性別 牡
地域 東京府
飼主 朝倉壽巡査
13年前に警察犬史でベル公のことを散々取り上げておきながら、そういえば犬籍簿欄にベル公を載せていないことに気づきました。
ベル公は警視庁南千住署の朝倉巡査が飼っていた犬。正式な警察犬ではありません。
警察署内をウロウロしていましたが、署長以下それを咎める者はいなかったそうです。周囲に有無を言わせぬほど犯罪捜査で多大な功績をあげ、昭和12年には主人の朝倉巡査が警視庁警察犬係に指名されるなど、日本警察犬史に記されるべきだったベル公。
しかし彼は、忠犬ハチ公と違って「歴史に名を残さなかった名犬」として忘れ去られました。
私が犬を飼ひ始めたのは、もう十八年も昔であるが、それ以來の私の生活といふものは、犬の働きによつて飾られたり、又、私が犬に向ける愛情によつて、ひたむきな生の喜びを知ると言つた風に、犬と切離した私は考へられない。
犬は私に生活の豊かさを與へて呉れた恩人―恩犬である。
十八年前、その當時、私は故郷の千葉で郡農會に奉職してゐた。かたはらポインターとセツターの二頭を飼ひ、犬を連れて獵に出るのが唯一の樂しみだつた。
こんな平穏な日々が續いてゐる内に、あの恐しい關東大震災に遭遇した。
大震の餘波を蒙つた千葉の私の家は、家を倒される許りでなく、最愛のポインターまでその下になつて命をとられてしまつた。
大正十三年、震災後のインフレに乗じて一儲けしようと目論んだ私は、或る仕事に手を出し、數萬金を投じた。が、嘗て商賣に全然沒交渉の私である。
數萬の金は瞬く間に消え果てゝ、貧乏のどん底に喘がねばならぬみじめさになつてしまつた。
呪ふべき成金夢は覺め、切るに堪へない犬との縁もたち切り、落魄の身を東京四谷の從弟の家に寄せた。
その頃、時々お目にかゝつた四谷署長にすゝめられ、警視廳の試驗にパスし、追分派出所詰となつたのは大正十五年であつたらうか。
派出所の傍に吉田屋と言ふ天婦羅があつた。飯屋のことゝて殘飯を漁りに來る、數頭の野良犬どもがゐたが、その中に純白の、毛の長い生後三ヶ月許りの仔犬がゐた。
それはロシアン・シープ・ドツグ(牡)である。可愛らしい仔犬のことゝて、近所の子供達は心惹かれたのだらう。仔犬の首に荒縄をしばりつけ、引張り廻して、良いお友達になつてゐた。
その様に無邪氣な子供達や子供を見てゐると、私はもう、自分の手で飼育したいといふ欲望に駈られて來た。
とは言へ、安サラリーで妻との二階借り生活では、犬を飼ふ資力もない。
が、手を拱いてぢつと見てゐる私には、私の愛犬熱は滿足出來ぬ。そこで先づ、酒、煙草、映畫をやめることを決心した。
遂に私は五十錢玉一ツを子供にやり、仔犬を手にすることが出來た。
さて自分のものにはなつたが、迷兒だつた仔犬には蚤、虱の寄生が夥しかつた。でも、それを丹念にとつてやる私の氣持は、どんなにか樂しく、震災で失つたポインターの代りにも、大事に育てあげよう、と妻にも話し、想ひを樂しかつた嘗ての日に馳せた。
屋内犬舎等と贅澤なことはいへたものでない。
幸ひ、田舎から持つて來た、只一つの竹行李、それの蓋にこれも一つしかない座蒲團を敷き、彼の住家と定めて、こゝに私の愛犬生活の第一の出發となつた。
その仔犬にはベル公といふ名をつけた。
ベル公は日増しに成長して、私は犬を仕込むことを始めた。ありふれた使役犬としての訓練は一ヶ月位で覺へ込むし、見るべき悧巧さを持つてゐた。
日が經つに從つて、豆腐屋、肉屋の使ひから、交番まで私の辨當を運ぶまでになつた。
が、ベル公の使ひにも不便が伴つた。それは顔見知りの店員でなければその用が果せないのと、何處へのお使ひかを簡單に知ることが出來なかつたことである。
で私は、風呂敷の色をかへることを思ひついた。
これには成功した。附近の商人達とも顔馴染となり、「ベルちやん」の名前は擴まつて來た。
とかくする内に、私は南千住へ轉勤することとなり、ベル公も顔馴染の人達と訣別しなければならない時が來た。
移轉に先だつて心配になつたのは、悧巧なベル公のこと故、故郷戀しさといふ譯で、四谷に歸られはしないかといふことだつた(私は常に放飼ひにしてゐたものだから、それだけにベル公の顔馴染も多い譯である)。
だから夜、而も箱に入れ、風呂敷を被せて、千住大橋の際に引越した。言ひ忘れたが、その時に飼犬は三頭になつてゐた。
それも外に出歩くベル公が、友達になつて、引張りこんだ犬達で、野良犬許り、その名前も野良犬のこと故、野公(のうこう)とか野良公と、親しみ易い、平凡な名で呼んだ。
その三頭の犬を連れて引越したのであるが、翌朝起きて見ると、ベル公の姿が見えない。
家中を調べてみると、勝手の戸が壊れてゐる。案の定、四谷に歸つたか、と照會してみると、ベル公奴毎日の様に遊びに行つた紅屋といふ呉服屋に逃げ歸つてゐた。
こんなことが前後三回もあつた。畜生とは言へ、可愛いがつて呉れる人は戀しいのだ。
その内に近所に顔馴染も出來て、四谷には逃げ歸らなくなり、依然として肉屋の使ひや、辨當運びをして呉れる。
私はベル公の訓練を、人間同様の言葉で訓練した。
「ベルちやん、肉を買つて來て呉れないか」と言ふように。
だから人間の言葉をよく理解することが出來た。こゝでも附近の人達の話題を一人占にするベル公だつた。
ベル公が馴染んで來ると移轉すると言ふ、甚だ氣の毒なことなのだが、又私は或る事情で移轉することになつた。
或る事情といふのは、近所に淺野物産の大理石工場があつて、そこではしば〃大理石が盗まれる。その爲め請願巡査を置こうといふ話が出たのだが、それよか朝倉君が住んだら、といふ署長の言葉。
それなら家賃もいらぬし、渡りに舟と、盗難除けの役を買つて出たのである。
その當時、私は留置人監視を勤めとしてゐたが、昔からのオシヤベリ癖で盗人達とは常に戯談言ひあつてゐたが、顔が變るたびに盗人に訊ねたのは、次のことである。
「盗みを働く時、一番恐ろしいのは何か」と。
「アツシヤー、犬が一番怖い」
「何故」
「犬といふ奴は、ちつとも油斷がありやしません。人間なんかだと、ちよつと横をむいた隙にといふことがありますが、犬だと足音でも臭でも悟つて、ちつとも油斷がないですよ」
「アツシヤー、犬の居る家は、ハナツから諦めます」
數千人の盗人に對するこの問答は、お定りの答だつた。
その頃、私の犬舎―、犬舎とは言へお粗末なものではあるが―、は四頭になつてゐた。
私は勤めに出るのには、毎日ベル公と他の一頭を連れ行き、留置場に遊ばせてゐた(※南千住署長の許可を得ていたとのことです)。これは勤務先にゐる私と自宅との連絡をとる爲めである。それには随分と役立つて呉れた。
賢いベル公。
私はこゝでベル公のお手柄話を二、三、諸君にお傳へすることによつて、過去十三年間のベル公の働きを謝し、行先短い彼への贈物とした。
帝都の窃盗犯を震え上がらせた名犬ベル公
昭和八年のある日、折柄縁日で賑つてゐた街に、四頭の犬を連れて散歩に出た。その歸りのこと、大理石工場(その一廓は私の住家である)から一丁許り離れた所まで歸つた時、何を發見したのか、ベル公は遽に吠え出し、工場目懸けて一目散に走り出した。
他の犬達もその後を追つて走る。
私もその後を追つて走つたが、その前方には人影も見えない。
とその内にベル公が鳥打帽をくはえて歸つて來た。ベル公には襲撃を教へてゐないので、唯吠える許りで、嚙みつき犯人を逮捕するといふことは出來ないのである。
持歸つた帽子を見るとニツケル製のマークがついてゐる。
そのマークに依つて學校名が分つた。學校に照會して調べて見ると、不良學生でとほつてゐる。
翌日彼の住所から檢擧して見ると、案の定大理石工場の盗みを働いてゐた。
これがベル公最初のお手柄である。
次のお手柄は、常の如く仕事に從事してゐた私のところへ、ひとり遊びに出てゐたベル公が迎えに來た。
迎えに來ると言へば、大時代に聞えるけれど、人犬の親和とでも言ふのであらうか、ベル公は不審なものを見附けると、何をおいても私の所へ知らせに來る。
私も數年間を共に暮し、かれの一擧一動、眼の表情によつて、かれが何を私に傳へんとしてゐるかはほゞ察しがつく。
その時も彼の動作から察して、彼の案内するまゝについて行くと、横町を廻らうとしてゐる眞鍮の棒の束を擔いで行く一人の男を見付けた。訊問すると、その男は驛の構内から件の品を盗み出しての歸りだつた。
その後昭和十年だつたか、窃盗團のアジトを發見した私は、深更、四頭の犬を頼みに單身乗込んだ。
そこの二階には數人の男達が蟠居してゐたが、私達に氣付くや、スイツチを切り、逃げ出さうとする。暗闇の中での亂鬪は物凄いものだつた。殘念にもその時は前科二犯の一人しか逮捕することが出來なかつた。
その際ベル公は腰をしたゝかうつて動けなくなつてしまつた。
犯人を荒縄で縛り、ベル公を小脇に抱へ、圓タクで本署に引上げたことは、思へば危い仕事であつたが、ベル公の腰をぬかした等、彼の名譽を害ふ事件だつた。
その頃ベル公によく使をさせた。大橋館といふ劇場の前のフライ屋があつたが、そこの主人はベル公に「ベルちやんは悧巧だから」と言つては牛の肝臓をベル公に呉れてゐた。
ところが、それも度重なるにつけ、ベル公は夜、フライ屋に日参するようになつてゐた。
或る夜、例の如くベル公がフライ屋に行つてゐると、フライを肴に酒を呑んでゐた勞働者が「ベル公、俺はお前の親爺のお蔭で、二年間も臭い飯を食はされた」と憤慨の面持であつたが、突然傍にあつた煮えくりかへつた藥罐をベル公目懸けて投げつけた。
ベル公の背中は大火傷を負つた。
大火傷を負つたベル公であるが、辨當運び等の自分の任務は果してゐた。
可憐などの姿を見るのは實に痛ましい限りであつた。
その事件を新聞記者が知り、ベル公とその勞働者のことが紙上に載せられた。
新聞の記事でベル公の可憐さを知つた人々から御見舞を頂いたが、その内でも郷誠之助氏の御令閨から、獸醫師高橋助蔵氏を使として、ベル公を見舞つて下さつたのは感謝にたへない。
その頃、選擧粛正運動が喧傳されたが、私はベル公の火傷の跡を見せつけられるのも痛々しく、選擧粛正と書いた着物を作り、四頭の犬に着せた。これは宣傳屋だと惡口を言はれる原因となつたが、私にして見れば、まあそんな辯解はよそう。
ベル公の傷も二ヶ月許りで漸くなほつた。
ベル公禮讃の記をだら〃と書いて來たので、こゝで一つベル公の失敗談を書いて見よう。
失敗談といふより、むしろ私達の失敗ではあつたが。
十二年一月、嚴冬の候とて寒風吹き荒ぶ、それは寒い夜だつた。
暫く振りに友達が、正月の年始に訊ねて呉れた。妻は臺所で友達をもてなす料理に餘念がない。とその臺所へ、ベル公が白い大根様のものをくはへて入つて來た。
これは隣町等で、片腕が出た場合の驚きを防ぐ爲めである。ところが遂に片腕は發見されなかつた。
こんな事件があつて一ヶ月もした頃、淺野石炭會社の粉炭の山の中から偶然片腕が發見された。私はそれで謎がとけたやうな氣がした。
あの一月にベル公のくはへて來た大根は、實は大根ではなくてこの女の片腕だつたのだ。
恐らくベル公は、轢死人を知らせる爲め、私の所までくはえて來たのだらう。
それをよく注意せずに、あちらへ持つて行けと言はれたベル公は、しほしほとその片腕を運び去り、粉炭の中へかくしてをいたのである。
ベル公の折角の御注進を、無爲にしてしまつた私こそ、馬鹿ものだつた。
帝国軍用犬協会第一軍用犬養成所を間借りして訓練中の朝倉巡査(内閣情報局『寫眞週報(昭和12年)』より)
鮫洲の警察犬訓練所が完成するまで、警視庁は帝国軍用犬協会の協力を仰いでいました。
そう云ふ過去を持つ私は、昨春警視廳防犯課の一部に警察犬係りが新設されるや、その係りに任命されてこゝに滿一ヶ年を經過した。
その間くめ川で畠の中に埋没してゐた死體を發見したことゝ、今年二月十一日、新聞紙上を賑はせた「警察犬の大手柄」等の成績を見た。
警視廳の警察犬としては未だ訓練中の犬が、しかも六頭しかゐないが、兎に角、こういふ成績を擧げてゐる。
私は警察犬部の擴張を大に希望してゐるのだが、悲しいかな、今事變で豫算の増額は到底望めない。それはともかくとして、今やつてゐる私の仕事は、どの犬種がどの使役に有望であるかで、今飼育してゐる犬種も、シエパード、エアデール、日本犬と言つた風に多様に亘つて飼育訓練を行つてゐる。
訓練については、軍用犬の方でも實戰的訓練が强張されてゐるが、警察犬に於ても實際に即した訓練を施してゐる。
例へば、窓から室内に飛び込み捜索させるとか、夜間訓練といつた風に。
如何なる名犬であれ、訓練手の指導宜しきを得なければ、結局勞して功なしである。
犬を綿密に觀察して、犬の凡ゆる動作の原因を探求することは、名訓練手のなすところであつて、警察犬訓練にはこれが最も肝要である。
型にはまつた訓練ほど犬の働きを鈍らせるものはない。
ベル公は今年十三才の春を迎へたが、相變らず元氣で、私を慰めて呉れる。
朝倉壽「愛犬ベル公を語る(昭和13年)」より