言わずと知れた日本動物愛護運動の父です。

宗教家である彼らが設立した「動物虐待防止会(後の動物愛護会)」は、在日外国人主導による「日本人道会」とともに動物愛護運動を展開。

野犬狩りが街頭での撲殺から捕殺処分へ切り替えられたのは、廣井さんらの尽力によるものでした。

戦時を通して活動をつづけた動物愛護会でしたが、日本は破滅へ向かって暴走していきます。やがて商工省の皮革配給統制規則は野犬革からペットの皮へと対象範囲を拡大。昭和19年末のペット献納運動へと至りました。

 

 

私のやつてゐる動物愛護會は、馬がその起りで、明治三十年の夏、九段の坂で馬の喘ぐのを見て堪らなくなり、馬車から下りて招魂社の後で「誰か牛馬の爲に涙をそゝぐものぞ」の一文を草したのが始まりである。

これは當時太陽の文藝欄に關係してをられた姉崎正治氏の手で同年の太陽九月、十月兩號に掲載された。私の動物愛護の第一聲であつた。

今日では馬車も自動車に代り、動物愛護の對象になるものは、まづ犬が主たるものとなつたが、犬のために愛護會も随分鬪つて來た。野犬の撲殺が捕獲に改良されたのも、犬の篏口令(※口輪をはめる規則)が解かれたのも、吾々が結束して折衝した結果である。

 

犬は、生來、私も大好きで、子供の時分から野犬を拾つては、ひそかに食物を與へたり、貰ひ手を探しては、飼つて貰つたりした。

動物に對する慈悲心が深かつた……、と自分で云ふのは變だが、憐みの心が多分にあつたのである。

自分で飼へる様になつてからは、物置に飼つては獨り樂しんでゐた。

 

慶應の教職にあつた大正二、三年の頃、一度猛犬を飼つたことがある。

宿なしの日本犬で、哮えたり、嚙みついたりして、苦勞も多かつたが、これを可愛がつてゐた。家が慶應の近くで、授業時間にあきが出來ると、この犬を曳つ張つて附近を散歩し、又學校へ出て行くと云ふ様なことをしてゐた。

無論朝も晩も犬との散歩は缺かしたことはなかつた。

「廣井の犬好き」

こんな評判が近所で立つて「野良犬を飼ふなんて、物好きな人もゐるものだ」と内々噂されてゐたらしい。

私は一向世間の評判なんか氣がつかなかつたが、ある日、教室へはいると机の上に讀賣新聞の切抜きが一枚載せてあつて、學生が一斉にニヤニヤしてゐる。

何が書いてあるのかと思つて讀み下してみると、廣井は度はづれの愛犬家だと云ふことが、面白い筆で書いてあり、最後へ持つて行つて「なりたい〃廣井さんの犬に、主にひかれて散歩に出掛け、何て間がいんでせう」。

間がいんでせう節(※明治40年代に流行した『何て間がいい節』のことです)が流行つてゐた頃のことで、歌の材料にされちまつたには、タヂ〃であつた。

 

今は一頭も飼つてないが、大正三、四年には十三頭ばかりの野犬が宅にゐた。

捨て犬を見ると、その儘で歸れず、目につく毎に拾つて來るので、到頭犬屋敷になつてしまつた。十三頭からゐると、食事の世話も大變で、可なり面倒であつたが、簡單な犬小屋で世話を燒いてゐた。

畜犬税は三、四頭分を拂ふだけで、あとは無税で飼つてゐたので、野犬狩のある毎に捕獲人がやつて來る(※畜犬税を納めない脱税犬は野犬と見なされていました)。

「犬を渡せ」

「いや渡さぬ」

いつも押問答があつて、結局捕獲人が門内へはいらうとする。

「門内へ一歩たりともはいるな。屋敷で捕へること絶對に罷りならぬ」

いつも追つ拂つて、宅は野犬の安全地帶になつてゐた。その代り警視廳から睨まれて、大分憎まれたらしい。

その十三頭の犬も、一匹死に、二匹死に、人二呉れた分もあり、段々數が減り、つひに一頭も居なくなつた。目下犬を飼はぬ譯は、殺すのがいやだからで、死ぬと可哀相な氣がして堪らない。

私の居間の床の間には、小犬が二匹遊んでゐる九谷燒が飾つてある。今から三十年も昔、金澤で浪人してゐる頃、贈られたもので、いつも私の床の間を賑はしてゐる。

 

廣井辰太郎『國際親善に役立つハチの存在(昭和10年)』より