鳥獣を詠んだ歌の多さからも、皇族の動物好きを窺い知ることができます。
犬に関しては、当ブログでも帝国軍用犬協会名誉総裁の久邇宮朝融王や日本シェパード犬協会長の筑波藤麿を紹介してきました。

明治天皇も宮内省猟犬舎を設け、セッター、細狗(内モンゴル産の猟犬)、ブルドッグなどを飼っていたそうです。

 

明治39年、皇室へ献上された細狗の「ニエスカ」と「チイルコ」

 

其中佛國産ブツク・フアウンド(佛名シヤン・ド・ガスコヌユ)といふのは六百圓で御買上になつたもので、今では此種のものが四頭居る。此種の犬の特色は常に狩獵者の近邊にあつて、鳥を探知するのを得意とする。

他に英吉利セツター(佛名エパニエル・フランシエー)七頭で、ゴルドン・セツター一頭(ポインターにて山邊馳走に適す)、アイルス・セツター二頭(水邊に適す)、黑樺犬(露國セツター)二頭及び故兒玉大將の献上にかゝる蒙古種一頭、英國動物園長献上のブルドツグ牡一頭(獨逸のビスマーク公の顔に似て居る犬にビスと云ふのがあつて、それに類しては居るが、之れは鬪犬種である)等が居る。

 

『陛下の御獵犬(明治40年)』より

 

帝國ノ犬達-新宿御苑 

宮内省の新宿御苑猟犬舎

その後を継いだ大正天皇も、先代に負けず劣らずの愛犬家でした。皇太子時代からさまざまな犬を飼育しており、崩御の際は幼時に愛用していた狆の玩具なども公開されています。

 

皇太子殿下(※後の大正天皇)は、天皇陛下(※明治天皇)に似させられて頗る犬を好ませられ、時々此御料地に行啓ありて擬獵の御戯などあるさうである(『陛下の御獵犬(明治40年)』より)

 

皇太子時代の愛犬の写真も残されているのですが、ビーグルなのかガスコーニュなのか、犬種は不明。

 

皇太子時代の愛犬たち

 

あの頃供奉した時の記念寫眞が一枚手元に遺つてゐます。それは明治二十七年三月の事で、場所は沼津の官舎の内庭です。

官舎といつてもお手輕な建物ですが、兎に角御學友の爲めに戴いた室ですな。そこで寫したのがこの寫眞です。

向つて右が北小路清、中央が西鄕從義、左の方が私です。

頭に冠つてゐるヘンな帽子ですか?それは、陛下の思召しで冠つたので、佛蘭西玩具のボンボンの中から出た帽子です。

御承知でせう、紙製の袋成りの玩具で、兩手で引く途端にポンと音して割れると、中からこんな帽子が飛び出すのです。

北小路と私とが牽いてゐる洋犬は、やはり陛下の御愛犬で、その時御獵のお供をした犬でした。

この寫眞は侍從の勘解由小路氏がお撮りの品で、陛下この御時代の御遊戯中の御寫眞は恐らく一度もお撮しにならなかつたと思ひます。

 

山田益彦『御學友奉仕時代の思ひ出(大正元年)』より

 

上掲の写真が撮られてから10年後には、ポメラニアンらしき犬を献上されたとの記録もあります。

 

福原君(福原八郎鐘紡重役・南米拓殖社長)は、思ひ出したやうに、これ亦同郷人である岳父の令姪の夫君、故横地長幹將軍が名犬二頭を曾て大正天皇がまだ皇太子でゐらせられた時、御献上申上げた美しい物語を語り始めた。
これには私も非常な興味と感銘を覺えて「そげんか有益な話ばナシもつて早く俺に話して呉れんぢやつたか(意訳:そのように有益な話を何故もっと早く私に話してくれなかったのですか?)」と私は同君に言つた。
今右記題目の下に、左に其片鱗を謹記する。



年月は審かではないが、何んでも日露戰役後間もなきことであつたと云ふことは確かである。
参謀總長上原勇作元帥が旭川師團長の自分に陸軍の大演習が行はれ、多分明治天皇の御名代としてゞあつたらうと推察し奉るが、まだ皇太子で在らせられた大正天皇が大演習御統監の爲に北海道に行啓に相成つたのである。
大演習終了後の御賜宴の席上に於ける大ひなる一挿話が本文の骨髄である。
惟ふに推古天皇が獵を廃して藥狩りを以て是れに代ふると仰せ出された事と云ひ、仁徳天皇が皇后の宮と共に毎夜鹿の啼く聲を聴こし召されて是れをあはれませられたことと云ひ、明治天皇の數限りなき動物愛護の御製と云ひ、今上陛下が献上の生き物や植物が或は病み或は凋ぶのを御覧になると痛く宸襟を惱まされることゝ申上げ、又御幼少な現皇太子殿下が那須の離宮の御園に放牧された馬の頬を御愛撫遊ばされた御ことゝ云ひ、吾がニツポン歴代の御皇室は大慈大悲の権化として、常に動物愛護の範を臣民に御示しに相成つてゐる。
實に尊くも有難き極みである。

大演習後の賜宴で、上原師團長以下の勞を犒はせられた席上に於て、偶々犬が御話題に上つた際、上原師團長は近くに着席してゐた横地長幹聯隊長を一瞥して、大正天皇に、犬ならばそこの横地が二頭の名犬を持つて居りますると申上げたとのことである。
此時聡明な横地聯隊長は、殿下は屹度自分の犬を御所望に相成るに相違ないと直感したので、大急ぎで立派な箱を二個誂へて恩命の下るのを待つた。
而し、翌日は何んのこともなくて過ぎ、其翌々日に成つてから横地聯隊長に出頭せよとの御下命があつたので、聯隊長の横地は早速二頭の名犬を用意の二つの箱に入れて参殿の上賜謁の光榮を有したが、殿下は果してお前は非常に良い犬を持つてゐるさうだが夫れを見せろと仰せられたのである。
御申付けの犬ならば只今持参して居りますると申上げると、横地の氣轉を大層御嘉賞に相成り、それでは直ぐその犬をこゝに伴れて來いとの御言葉があつたから、横地聯隊長は待たしておいた犬を聖覧に供した所が、一目御覧になった殿下は痛くその犬が御氣に入つたと見えて、一頭を譲受けたいとの仰せであつた。
仍て、聯隊長横地は是れを無上の光榮として、實は二頭共に献上申上げる積りで二個の箱を拵へて参殿致した次第で御座りますると申上げた。

殿下は、二頭共献上すると云ふお前の言葉は喜ばしく思ふが、二頭共貰つてはお前の子供達に済まぬとの畏れ多き言葉を拝聞して、横地は電氣に撃たれたやうな感激を覺え、御言葉は恐懼に堪えませぬが、二頭共に御嘉納賜はる様に御願申上ますと御答へ申上ぐると殿下は大變御悦びに相成り、お前が夫程云ふならば二頭共に申受けて、一頭は御母君に差上げる事にしやうとの御言葉であつたとのことだ。
「お前の子供達に済まぬ」と云ふ御言葉は何んと有難き思召しではあるまいか。蓋し是れは歴代天皇の民草に對する一貫共通の大御心である。

當時の旭川師團長上原将軍は横地聯隊長を高く評價して居つたと傳へらるゝが、この後の横地将軍は極めて硬骨漢であつて、少将で予備に成つたのは彼の剛直が一つの原因ではなかつたかと私は思つてゐる。
私は横地長幹将軍は大尉時代からの知合であつたが、晩年には郷里柳川に退耕し、將軍町長として聲望が高かつた。
而して此一文を草するに當り、故横地將軍を偲ぶの情甚だ切なるものがある。

廣井辰太郎『大正天皇の御逸話を拝聞して(昭和18年)』より

 

ちなみに日本工兵の父、上原勇作も愛犬家でした。
その部下である横地連隊長が大正天皇に献上した「ポーランド産の狆」は、おそらくポメラニアンかジャーマン・スピッツだったのでしょう。
もしかしたら最も古いスピッツやポメラニアン来日の記録かも。