「戦時中に犬は飼えなかった」とかいう主張を見かけますが、「戦時」にも昭和6年の満州事変から昭和20年の敗戦まで約15年間もあったワケです。

大まかな戦時犬界の時系列は下記のとおり。

満州事変から昭和12年の日中戦争勃発までは日本犬界も隆盛期を迎えており、文部省が日本犬を天然記念物指定し、忠犬ハチ公ブームが到来し、陸軍省の軍犬報国運動でシェパードの飼育が大流行していました。

日中戦争以降は状況が暗転、昭和14年には商工省の皮革配給統制規則に犬革(三味線用だった加工革)が加えられ、「贅沢は敵だ」をスローガンにかかげる国民精神総動員運動によって犬の飼育が贅沢視される同調圧力が高まります。

昭和16年の太平洋戦争突入以降は欧米からの洋犬輸入ルートも途絶。食糧難を予測した農林省も商工省の犬革統制に追随し、犬は「国家の役に立つ軍用犬や猟犬や天然記念物」「無駄飯を食むペット」に線引きされます。

戦局が悪化した昭和18年、物資不足により民間ペット界が衰退し、日本犬保存会や日本シェパード犬協会といった大規模団体も次々と活動を休止。昭和19年に絶対国防圏が突破されると、軍需皮革(原皮)の確保を急ぐ軍需省と狂犬病対策に苦慮する厚生省は全国の知事にペットの毛皮献納を通達し、それを受けた各都道府県では夥しい数の犬猫が殺戮されました。

日本ペット界崩壊の前夜、昭和17年の状況は下記のとおり。あいかわらずシェパードが伸長する一方、ドーベルマン、エアデールテリア、日本犬の衰退ぶりが嘆かれています。

 

 

今静かに昨年度(※昭和17年)の犬界を回顧するに、頗る盛んであつたけれども、それはシエパード犬に限られてゐて、他の犬種が一向振はず、愈よ跛行的になりつゝあるのは各犬種歩調を合せた發展を期待する筆者にとつて、一抹の淋しさである。

このことは本巻頭言に屢々述べて各犬種愛好家の奮起を促し、時局に即應した構想のもとに愛好犬種を生かす熱意を要望したけれども、何等反撥的氣勢は認められず、却つて時局に順應の積りか沈黙の一路を辿つてゐるのは洵に遺憾の極みである。

中でもシエパード犬に次いで犬界の人氣ものであつた日本犬の總元締とも云ふべき日本犬保存會の急速なる萎縮は、殆んど不可解とも云ふべきである。

何故なれば國犬である日本犬の發展を今日程要求する時代は、恐らくないと思はれるからである。

保存會とすれば例の新團體結成問題の引つかゝりがあり、それが實現すれば會は自然解消し、日本犬も軍用犬として新しき使命のもとに赫々の進路が拓けるのであるから、それを待つて遷延今日に至つたのであらう。

ところが新團體結成問題は一昨年以來の懸案ではあるが、未だ海のものとも山のものとも決せず、何時になつたら決定するか一寸見當がつかぬと云ふのが實情のやうである。

今日になつて見ると、一躍軍用犬にのし上げ、一番得をするやうに思はれた日本犬保存會が一番損をしたのであつて、その點大いに同情されるが、しかし他に依存して何等積極的企劃を持たぬ怠慢は責められても仕方がないと思ふ。

尤も愛好者の一部には日本犬の性能を實證すべく訓練熱の臺頭しつゝあることは特筆してよい。

屢々云ふ如く、現時局下にあつては、犬と云へども聖戰完遂の一翼となつて大に貢献する覺悟がなければ存在の意義がない。

平時ならば人間の慰安丈けでも飼育の目的は成立し、又兒童に動物愛護心を培ひ、情操教育に役立つことも犬の大きい使命であるが、戰時下にあつてはかゝる精神的の役目丈けならば何も食物を食ふ犬でなくとも、他にいくらでも代用すべきものがあらう。又それで辛抱するのが當然である。

本誌が事變以來頻りに輓曳犬の普及を策するのもこのためであつて、中には犬に車を曳かせるなど動物虐待であり、犬を侮辱するものだと思ふ人があるかも知れぬが、平時なら知らず、今日の如く勞働力不足の場合、犬で間に合ふならば、大いに利用した方が國家のお爲めであり、犬種の繁榮を齎らす所以である。

そして虐待云々に就いては、研究して勞働力の限度を示し、又厚生制度を確立すればよろしく、これは別個の問題である。

犬の用途は必ずしも常に一定するものでなく、その時代に即應し、最も効果的なものを選ぶことが賢明である。時局を認識し、新しい構想のもとに愛好犬種を生かせと云ふのもこれを指すのであつて、それ〃の犬種の長所を生かした職能を發見すればよいのであるが、昨年度の犬界はこの點、未だ不熱心のそしりを免れぬ。

それはともかく軍用犬と云ふ時局下最も輝しい使命を擔つてゐるシエパード犬は眞に幸運であつて、愈よ隆々たる發展を遂げ、今や全く犬界を制壓した觀がある。

同じ軍用犬でもドーベルマン、エアデールは一向振はず、帝犬(※帝国軍用犬協会)本部展に於てさへエアデールの出陳は僅か四頭を數へるに過ぎず、又本部競技會にはエアデール、鍛錬會にはドーベルマンが一頭も姿を見せなかつたことは、それを如實に物語るものと云つてよい。

然るにシエパード犬のみは初春の軍種牡犬購買に於て一流種犬が九頭迄購買され、その最高價格は實に二萬圓近い高額であつて、S犬蕃殖界に好刺激を與へたこといくばくか知れなかつたが、更に舊臘中級牡牝犬が五十頭近くも購買され、愈よS犬蕃殖界を有卦入らしめたのである。

かくてS犬蕃殖はよいものを作りさへすれば十分報ひられると云ふ確信がついて、益々活潑化したのであるが、一面現下の飼料難は育成にも幾多の困難を伴ひ、同じ苦勞して育てるならば成るべく高價に取引されるものを作つた方がよいと云ふ觀念の下に、交配相手犬は交配料の高價な有名な犬にのみ集中する傾向が愈よ顕著になりつゝある。

これは大いに一考を要することである。

この他昨年度に於て特に注目されるものに帝犬の訓練士統制強化がある。このことは久しき以前より屢々容貌されてゐたことであるが、こゝにその緒に就いたことは洵に喜ばしいことである。

これによつて訓練士はその身分を保證され、又一般愛犬家はいかさま訓練士に惱まされる不安が一掃されたが、それより以上に喜ばしいことは、これによつて軍用犬訓練の統一されることで、このことは軍犬資源上にも非常に影響を齎すものと思惟される。

この上は訓練熱の高揚と云ふことであるが、この點近來とかく沈滯氣味であるのは遺憾である。

勿論帝犬は今年度より展覧會出陳の成犬はすべて訓練資格のある犬に限られることゝなり、訓練は非常に普及したのであるが、さらに一段と訓練を研究し向上せしむる積極性を何等かの方法で、もつと高揚させたいものである。

次に滿犬(※満州軍用犬協会)が更生の基礎なり、積極的に働き出す態勢を整へて來たことも昨年度の大きい収穫と云へる。尤もその成果は今後に待たなければならないが、何んとしても賽犬(※満州軍用犬協会のドッグレース事業のこと)から上る収入は大であり、内地の協會と違つて金力に恵まれてゐるので、その活動よろしきを得れば眞に偉大なる勢力を發揮すべく、内地犬界に影響する處も頗る大と思ふ。

その他飼料問題は依然困難ではあるが、各種の創意がこの難局を打解しつゝあるのは愉快である。

即ち帝犬東京支部は副食物の配給に成功し、JSV(※日本シェパード犬協会)の軍犬口糧は愈よ聲價を發揮し、又滿洲方面にても代用飼料の發賣が計劃されてゐるやうである。

その他これは日常の問題である丈けに、各人に於ても相當熱心に研究されてゐる模様である。

最後に畜犬文化方面に於ては昨年度年鑑に指摘した本格的の研究が徐々に實を結びつゝあるのは喜ばしいことである。

尤も昨年度に發表されたものは本誌の文化賞金贈呈者以外に刈田尚志、今田荘一、松本有義氏の他數氏位のものであつたが、今年度に於てそれ等の業績は實を結ぶべく、既に本社丈けでも數種の權威ある研究書が發行される計劃がある。

昨年度の犬書の出版は實に寥々たるものであつたが、本年はそれ等で十分埋合せがつくと確信してゐる次第である。

 

白木正光『昭和17年の犬界回顧』より