今から四年前、僕が澁谷驛へ下車した事があつた。其時に、眞白な犬が驛前に居たから友達に「此犬、とても大きな犬だが、何犬だらう」と訊ねて見ると、「これは澁谷驛の名物犬で、故上野博士の愛犬であつたのだが、博士が物故せられて後も、博士在世の當時と同じ様に、朝は九時に此所へ恰も博士を送るかのやうに現はれ、夕刻四時から五時半迄斯うして歸らぬ主人を待ち受けて居るのだ」。

初めて知つた犬の身の上に甚く同情して、試に呼んで見ると、尾を振りながら僕の前に來て、ちよこなんと坐つた。
此時の印象がとても良くて、爾來僕の頭から離れないので、今度の銅像の原型の依頼を受けた時も喜んで此名物犬―否、世界的の名犬ハチ公の爲めに、と思つて快く承諾して、製作することにした。
ポーズは僕が初めて彼を見た時の印象を其儘―、僕の前に來て坐つた其型と表情を其儘に、出さうと思つて作り上げたのが、これなのだ。
サイズはハチ公の等身―、高さ二尺五寸位、それを高さ四尺二寸の山出し其儘の花崗岩の臺の上に建てることにしたのだ。臺石の側面には山本悌次郎氏の義狗行を彫りつけることになつて居る。
 
帝展審査員 安藤照『忠犬ハチ公の銅像製作に就ての感想(昭和8年)』より 

 

忠犬ハチ公像の制作者として知られる安藤照。愛犬家だった彼は、郷里鹿児島のサツマビーグルについても幾つか記しています。

戦前のサツマビーグルに関する記録は貴重なので、今回ご紹介しましょう。

まずは昭和9年の証言から。

鹿兒島は昔から兎獵の盛んな土地で、その兎獵によいと云ふので明治三十年代に、川村さんなどがビーグルを使用したのが評判となって、耳たれ犬に限ると云ふことになり(※いわゆる薩摩ビーグルの話です)純日本犬は段々減少した。
又南薩地方には無尾の犬がゐたが、これには面白い挿話がある。
南薩の山に兎を追ふことのとても巧みな山犬がゐた。それが黑で無尾であつた。里人がこれを捕へやうとしたが敏捷でどうしてもつかまらない。
一策を案じ牝の發情期のものを放つてまんまと捕へ、今日殘つてゐるのはその子孫だといふのである。

 

彫刻家・安藤照『鹿兒島犬(昭和9年)』より

 

帝國ノ犬達-安藤照

 

郷里の鹿兒島は西郷南洲翁の兎狩り以來、兎獵の本場と目されてゐますが、私の話もその頃の兎獵の話から始め度いと思ひます。

その頃から日本犬、所謂地犬を使つて、鐡砲の代りに係蹄(わな)をしかけてする兎獵が盛でありました。

その係蹄の作り方は篠竹の節をとつて、手織の麻紐をしつかりと結びつけ、一端をその節穴より通して竹の他端に出すのですが、挿繪を御覧になれば判りが良いと思ひます。

この様な方法で作つた係蹄を首にひつかけたり、腰に下げたりして、山人を連れて兎獵に出かけます。

 

兎はその習性として、同じ處に二匹も三匹もかたまつて居ることは先づなく、大概一匹宛その區域が定つてゐて、一山一山に單獨に棲息してゐます。晝間は休息して、食を求める爲めの活動は夕方より始まり、畑の麥の芽とか、山の木の新芽を好んで食べますから、山に行つた場合に新芽を嚙つた跡がありますから、その嚙り跡の新舊で、兎の休息してゐる大體の場所を知ることが出來ます。その範圍も大體一定してゐます。

これと同様に、兎の通る路も一定してゐる爲め、兎の通る路―、兎路(うじ)を枯草の中に見付けるのもさして困難ではありません。

 

友人と共に、或は山人を連れて山に出かけ、この際兎犬を連れることは勿論ですが、犬は多いほど良い様です。犬は必ず繋いで行つて、その山に兎が居ることが判りますと、嶺傳ひに兩脇の兎路とか畠の周り等の兎路を探します。その間は犬を上の方へ繋いで置きます。

そして係蹄をかけ終つて初めて犬を離すのです。

離した犬は兎の歩いた路を探し、兎の寝場所を捜索するのですが、場合に依つては一山も二山も向ふの兎を起すこともあります(起すとは追ひ出すこと)。追ひ出した犬は、追ひ鳴きを始めます。

追ひ鳴きが始まりますと、他に捜索に出た犬もそのもとに集つて、犬達は隊をなして、追ひ出した兎の新しい臭をつけて追ひます。

その時兎犬は係蹄を良く知つてゐて、係蹄の場所を避け、決して係蹄を壊す様なことはありません。

かくする内に兎が係蹄にかゝると言ふ寸法ですが、兎が獲れゝば犬にその臭を嗅がせて喜ばせ、再び犬をつなぎ、先の係蹄をとりあげます。

かくして更に他の山へ移ります。

 

南洲翁が兎獵を好まれたのは、兎を追ふことが主であつたか、或は想を練ることが主目的であつたかと言ひますと、私の考へでは恐らく想を練ることが眼目であつたらうと思ひます。

鹿兒島では青年の間に兎獵が奬勵されて、青年が團體を作つて一日を兎獵に樂しむことを慰安としてゐます。

南洲翁の後輩だつた人達も兎獵を覺へて、東京方面でも、鹿兒島から兎犬を取り寄せて兎獵、猪獵が盛んなものでした。

その後樺山大將等が外遊の途次ビーグル種を持ち歸られた。

獸獵に良いと言ふので、この犬に追はして見ると、非常に良い成績を擧げます。これは西洋の兎専門の犬で現在鹿兒島でも、鹿兒島ビーグルと言はれる迄に持囃されてゐます。

 

麻を澁でそめたり、麻糸を手織つたりすることも兎獵の一つの樂しみです。言はゞ釣道樂が釣道具をいぢる様にまた味のあるものですが、その後針金が容易く手に入る様になつてからは、麻糸の代りに針金を用ひる者が多くなりました。

然しこれは、他の獵師の犬がかゝつたり等して、他に迷惑を及ぼす様なこともあり感心しません。針金が容易く手に入る爲め係蹄をかけつ放しにするからです。

最近は鐡砲を兎獵に用ひる様になりましたが、方法は係蹄の場合と全く同様です。

 

日本犬の缺點としましては、足が非常に速い爲めに、兎を途方も無い所に追ふことがあります。その他追ひ鳴きがとぎれ〃であつたり、聲が小さいと言ふ様なことが擧げられます。これは追ひ鳴きの聲によつて、兎の逃げ廻る様を頭に描く獵師にとつて最も不可ない缺點であります。

それに比してビーグル種は、日本犬より鼻も利きますし、追ひ鳴きの聲も大きく、臭にあたる度に追ひ鳴きをします。亦足があまり速くない爲め好結果をもたらします。

それは兎が逃げるに樂をするので、區域内から遠走りしないで、上にでたり、或は下に廻つて鐡砲撃ちの前に飛出す機會が多いのです。

ですから鐡砲係は多勢連れだつて行つて、崖崩れとか山の嶺の道のよく見える所等に思ひ〃に待ち伏せて兎の出るのを待ちます。

 

兎獵と鳥獵の大きな相違點は、鳥の場合ですと、一人の鐡砲撃ちの鼻先から出た時に、その獵師一人が樂しめるに過ぎないのですが、兎の場合ですと犬が追ひ鳴きをする爲めに、その間は獵に來た者總てが緊張して、快味を貪ることが出來ることです。

東京の人達は兎獵を嫌つて、假に犬が兎を追ひ出しなどすると、却つて犬を叱る位なので、何處に兎獵に出かけても案外澤山居て、兎獵を好む者には樂しめます。

只困るのは兎獵をする人が尠い爲めビーグルが容易に手に入らぬ事です。

 

ビーグル種に就いてお話しますと、色は三毛で耳が長く、やさしい表情で、聲も甘つたれた様な鳴き聲です。そして獸に非常に強いのはこの犬の特徴ですが、實に可愛い犬です。

飼育する上で御注意したいのは、矢鱈に可愛いがりますと、例へば頭を撫でたり、抱いてやると、も一度やつて貰ひ度ひと非常に鳴くのです。

それは野獸性がぬけて無い爲め聞き分けがないからです。可愛いがると言ふ上からは他の犬と同様ですが、方法としては圍の中に入れてをくとかして、かゝりあつて可愛がらないことで、若し矢鱈に可愛がりますと、山に行つても人の後について來る許りで、兎を追はなくなる虞があります。

 

初めて兎獵を樂しまうとされる方は、ビーグル種は手に入らないし、それを探すにも相當の苦心をされることでせうが、東京の近くでは群馬の足尾線の上神梅の温原宿で兎犬を見たことがあります。

その他伊豆方面でも、宮内省の獵犬の系統のものが居ります。日光方面にも居るのですが、精しいことは私に分つてゐません。

 

安藤照『兎獵と兎獵犬(昭和13年)』より