清国人から「生蕃」「蕃人」と蔑称されていた台湾山岳民族は(清国に従う勢力は「熟蕃」と呼称)、そのまま統治を引き継いだ台湾総督府にも激しく抵抗。鎮圧する側・される側に犠牲者が続出します。

これに悩む総督府は、隘勇線(清国から受け継いだ山岳地帯の防衛ライン)の警備隊員が飼っていた番犬に着目。明治43年に 11頭の猟犬(ポインターとブラッドハウンド)を内地から購入、「蕃人捜索犬」として訓練を始めました。

こうして、日本最初の警察犬たちは血で血を洗う山岳ゲリラ戦でデビューしたのです。

※「日本本土で最初の警察犬」は大正元年に警視庁が配備していますが、「外地を含む日本最初の警察犬」は台湾の蕃人捜索犬です。

 

台中庁警察の蕃人捜索犬は、明治44年の眉原社騒乱鎮圧作戦に出動。これら警察犬たちは警官隊のセンサーとして活動し、密林や夜間の行動を察知された眉原社は成すすべなく潰走します(いっぽう、警察犬を配備していない陽動部隊は大損害を蒙りました)。

これを評価した佐久間総督は、大正2年に猟犬訓練士の田丸亭之助を招聘。 警察犬の配備拡大を計画しました。

田丸氏自身は「訓練に成功した」と後年に回顧していますが、実際の記録ではちょっと違います。

 

犬 

猟犬種で構成された蕃人捜索犬(大正初期まで、日本や台湾にシェパードは輸入されていませんでした)

 

蕃界捜索犬訓練の爲め、臺灣蕃務本署の招聘に依り渡臺したる田丸亭之助氏が臺地銃獵界諸氏の爲に、自ら訓練せる獵犬の使用法を示し、且つこれが訓練の要旨を語るべく二月廿一日午後五時より臺北新公園に於て之を實施したるが、氏の連れ行ける獵犬はポインター種二頭にして何れも其の訓練の行届けると、犬の敏捷なるとに驚嘆せしが、此實演了りて有志者二十餘名は氏をライオンに招きて晩餐會を開き、席上に於て獵犬訓練談を乞ひ、何れも熱心に耳を傾けたるが、氏の談は最も懇切にして質問に對し一々解答を與へ出席者一同滿足感謝の意を表したりと。

目下牛欄坑には廿五頭の捜索犬を飼養し、是まで隘勇をして蕃人に假装せしめ、捜索方法を訓練し來りたるが、田丸氏は之では蕃人の匂を嗅させるに遺憾ありとて、線内蕃人(※山岳民族のうち、台湾総督府に従う勢力は隘勇線の内側に居住していました)六名を五ヶ所に潜伏せしめ、試みに捜索せしめたる。二ヶ所の蕃人は之を發見したるも、其餘の三ヶ所は發見するに至らで成績十分ならざりき。

田丸氏は評して曰く、斯る劣等なる犬を斯の程度迄に訓練したるは餘程骨の折れたる事なるべしと。

また潜伏者と爲りし蕃人は曰く、日本犬は鼻が利かぬと見え、自分が隠れ場より約二間の處まで來て遂に發見する能はざりき。

斯くては鹿の上を飛び越へても鹿を發見し能はざる可し。

而かも捜索する時の勢は頗ぶる猛烈なれば、臭覺作用鋭敏とならば偉大の効を奏す可し云々。

 

『蕃人捜索犬の訓練(大正2年)』より

 

抗日運動が沈静化やシェパードの渡来とともに、台湾警察犬たちの任務も変化。

軍事任務は日本軍の軍用犬へバトンタッチされ、警察犬たちは本来の犯罪捜査にあたるようになりました。これら次世代の警察犬たちは、高雄警察署を中心に台湾犬界ネットワークへ組み込まれていきます。