全国の各府県で畜犬行政が始まったのは明治初期のこと。

飼主のマナー違反を取り締まるため、明治5年には京都府が「府令第94号」で悪犬打取を布告、明治6年には東京府および置賜県(現在の山形県)がそれぞれ「東京府畜犬規則」と「置賜県令第119号」、明治9年の滋賀県、11年の北海道、19年には神奈川県なども畜犬行政をスタートしています。

京都府や東京府が邏卒(明治8年以降は「巡査」へ改称)に畜犬取締を実施させていた経緯もあって、明治14年には警視庁も「畜犬取締規則」を制定。

同時に、狂犬病対策でも大きな進展がありました。

それが、明治26年に始まる長崎県の狂犬病大流行。大規模感染は3年経ってもおさまらず、明治29年には強行手段としてパスツール式予防注射が導入されたのです。

予防注射の効果は絶大で、以降はこれが狂犬病対策の基本となりました。

 
翌年、国家も狂犬病対策に着手。「獸類傳染病豫防規則(明治19年施行)」を改正した「獸疫豫防法(明治30年施行)」により、狂犬病が家畜伝染病の対象となったのです。

同法を管轄する農商務省によって、全国規模での狂犬病統計調査もスタート。大正11年に「家畜傳染病豫防法(旧)」へ改正された後、狂犬病対策は内務省へ移管となります(昭和4年)。

こうして狂犬病対策と畜犬行政の統合は進みますが、警察力をもってしても狂犬病の撲滅には至りませんでした。

 

 

関東大震災直後も狂犬病予防注射は続けられました。画像は震災発生から8日後の大正12年9月9日、東京の犬猫病院で狂犬病予防注射を受けたポチ。

東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より 

 

日中戦争が始まると、野犬毛皮の戦時統制をはかる商工省、家畜衛生と狩猟法を管轄する農林省、狂犬病対策を巡って内務省と対立してきた厚生省も畜犬行政への介入を強めます。

戦争末期の畜犬献納運動で抑え込まれた狂犬病は、敗戦で犬の頭数が回復すると共に感染爆発。

戦後の混乱で防疫措置が不十分な状況を踏まえ、農林省の家畜伝染病予防法と厚生省の狂犬病予防法が分離されたのは昭和25年のことです。これを機に各地の畜犬行政も警察から保健所へ移管され、昭和30年代に狂犬病撲滅へと至りました。

 

ちなみに大正末期、上野英三郎博士を喪ったばかりのハチ公が放し飼い状態でウロウロできたのも、彼が警視庁に飼育登録された「畜犬」だったから。登録することで狂犬病予防注射と畜犬税納付も義務化されますから、あの物語に法的な根拠はあったワケです。

「無名時代のハチ公は野良犬だった」などという主張もありますが、そうであれば下記の諸規則により野犬狩りの対象となっていたことでしょう。

 

 

狂犬病豫防法に就ては、大正十五年七月東京府及神奈川、埼玉、群馬聯合狂犬病豫防デーの際、警視廳宣傳ビラに掲載せる各條項に依て、其の目的を達し得ると考へらるゝも、開業獸醫の立場より少しく意見を附加せんとする。

從來狂犬病豫防には碩學パストール氏による狂犬病免疫家兎の腦の乳劑を以て十八日間連續注射を施し、免疫することを得るも、近代我國の學者の研究により、初て豫防液の完成を見るに至り、即ち北里研究所の獸醫學博士梅野信吉の梅野液(※大正5年開発)及び押田徳郎氏の押田液を初めとして、其他各所に豫防液の製造及注射を施行するにより、殆毎常生命を救ふことを得るのである。

畜犬は成犬に於ては一年一回豫防注射を施行するときは滿一ヶ年は有効である。未成犬に於ては其の體格に依て注射液の量に差異あるを以て、成長するに随ひ効力を減弱することにより一年二回以上施す必要がある。

又、未だ豫防注射をせざる畜犬が狂犬に咬傷された場合はなるべく早くせなくてはならぬ。此の場合は連續二日間に二頭分量の豫防液を注射するときは實驗上皆發病を免れて居る。

 

警視廳狂犬病豫防法

(1)犬の届出を怠らぬこと

犬を飼ふ人は必ず三日以内に警察署に届出で畜犬票を附けて置くこと。又仔犬が生れたときも届出せねばならぬ(仔犬は税金がかゝらぬ)。

飼はない犬は警察に相談して早く處分して貰ひたい。

畜犬の届出は最も必要條件で、狂犬病の流行するのは全く無届け畜犬の多いのによる。無届け飼養者は豫防注射を行はず遂いには狂犬となる。野犬捕獲者の捕獲する犬は概ね畜犬で眞の野犬は甚だ少い。例之公園内の野犬の如きは全く捕獲不可能である。

無届にして豫防注射を施さず、中には仔犬時代のみ飼養し成犬になれば放任し、又は皮膚病にでも罹るときは自己の飼犬に非ずとなし、野犬となすが如きは全く動物虐待の行爲にして、一頭の野犬をつくるときは數百の狂犬を造ると心得なくてはならぬ故、人畜の保健上是非届出の義務を有するものである。

 

(2)豫防注射を受けること

届出のしてある犬は當分のうちは警視廳から獸醫師が巡廻して無料で豫防注射をするから進で之を受けること。

眞に犬を飼養せんとするものなれば、所轄署の催告を受けて連行する迄もなく、自ら進んで自費を以て豫防注射を施すべきである。

警察署に多數の畜犬集合し、不安と恐怖の爲め惡癖の出るも計り難く、又多數の内には疾病經過中の畜犬にも豫防注射を行ふ場合もあり、當局獸醫師に於ても喧騒等の爲め正確を期し難く不慮の失態を來すこともあるのである。

之れを信用ある家畜病院又は開業者に依頼するときは犬瘟熱(※ジステンパー)其他の病氣等もよく診斷發見して萬遺漏ないのである。

 

(3)野犬捕獲の邪魔をしないこと

狂犬は注射を受けない犬、即ち無届の野犬から多く發生する故、警視廳では毎日各所に野犬捕獲人夫を巡廻さして居るから、其際可憐さうだからとて野犬を匿したり又は故と逃したりせぬこと。

又自他相警しむるの意味にて畜犬の無届飼養者があつたら届出を勸誘するか又は巡査派出所に知らせること。

 

(4)犬を繋留すること

犬が本病に感染するは狂犬に咬まれる爲めであるから、犬を可成鎖で繋で置くのがよろしい(※警視廳畜犬取締規則上、特別な例を除いてペットの繋留飼育義務はありませんでした)。

此の事も必要のことではあるが、犬に依て殊に未成犬は繋留を厭い、却て惡癖を醸し、又は疾病を發生することもある。故に成犬老犬等にて繋留し得るものは實行し、同時に畜犬の盗難をも免れることが出来る。

 

(5)犬の様子に注意すること

犬の様子に注意し、少しでも異状があつたら附近の獸醫師に診察して貰い、狂犬の疑ひがあれば直ちに警察に届け出で、警視廳獸醫師の檢診を受けなさい。

犬の様子、殊に精神的に不安や其他常よりも變りたるときは一刻も早く附近開業獸醫師の診斷を最も必要のことである。

 

(6)犬に咬れたら直ちに届け出ること

犬に咬れたときは其の犬の毛色、大小、飼主の番地及名前等を警察署、巡査派出所、同駐在所等に届け出ること。其の犬は警視廳獸醫師が檢診をして狂犬であるかないかを決定した上通知をします。

畜犬にして故なく咬傷した場合及野犬に咬傷された場合は警察署に届け出でるを良しとするも、其の他の場合即ち犬の尾を小兒が引張り又は犬の肢を下駄にて踏み附けたる場合等は警察署に届け出で直ちに繋留を命ずるなどは餘りに酷であると考へられるのみならず、往々にして警視廳獸醫師の來診は迅速に行れない故に決定迄は數日或は何日間被咬傷者に豫防注射を施す例は甚だ多い。

されば附近の開業獸醫師の鑑定を乞い、なるべく迅速に決定し不必要の豫防注射を避くるを得策とするのである。

 

最後に近來一部専門家の唱ふる避妊手術、即ち牝犬なれば卵巣割去又は子宮剔出、牡犬なれば睾丸割去即ち去勢を勵行することも繁殖の必要なきものには一法と考へられる。

少しく經驗ある開業獸醫師なれば犬猫の卵巣割去は割合に危險のないものである(大正十五年十月廿六日)。

 

獸醫師 武藤義治『狂犬病に就て』より