帝國ノ犬達-岩屋の浦 

『潮時を考へて犬海を渡る(嘉永7年)』より、淡路国から堺へ向けてサーフィン中のワンコ。

当時の和犬は斑模様で描かれるのが普通でした。

 

現代のワレワレが知る「立耳で巻尾、茶・黒・白色一枚の体毛」という日本犬のイメージは、昭和3年以降に定着した新しい概念。

それ以前の「本来の和犬」は、斑模様の個体も多かったんですよね。

消滅しかけた和犬を復活させるため、日本犬保存会は大・中・小サイズでの日本犬標準化と交配繁殖をはかります。これにより日本犬は復活を遂げたものの、いっぽうでスタンダードから外れた巻き毛や垂れ耳や斑模様の地域個体は「雑種」として淘汰されてしまいました(売り物になりませんから、ブリーダーも繁殖を避けてしまいます)。

日本犬を生き残らせるため、地域性や多様性は排除するしかなかったのです。

 

犬 

斑模様の石州犬(昭和9年撮影)

 

しかし、日本犬復興のための「緊急措置」として導入されたスタンダードは、戦中・戦後の混乱によって黄門様の印籠の如き権威と化してしまいました。

戦前の記憶が薄れた昭和40年代になると「江戸時代の斑模様の犬は南蛮犬との雑種。現代の日本犬こそが純血種である」などという、時系列無視・本末転倒の暴論も登場。後出しジャンケンも大概にしろと。

現代の日本犬論は、相当に偏狭な思考の産物だったりするワケです。

 

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東京目線のスタンダードを地方犬界へ押し付ける日本犬保存会に対し、関西の日本犬協会、北海道のアイヌ犬保存会、東北の猟犬系秋田犬協会などは激しく反発。特に日保と日協の抗争は戦時を通した長期戦となり、戦後犬界にも禍根を遺してしまいました。

「日本犬保存会史」と、「全国地域犬界の集積である日本犬の歴史」は別物として捉えましょう。

 

戦前には消えゆく斑模様の和犬を論じる愛犬家もいたのですが、いずれもスタンダードを巡って日本犬保存会とケンカしていた「日本犬協会」や「猟犬系秋田犬協会(秋田犬保存会とは別の組織)」といった団体の関係者ばかりでした。

両団体とも戦況悪化により解散したため、彼ら傍流の異論反論は無かったコトに。そして戦後は「日本犬保存会視点での日本犬史」が主流となったワケです。

今回はケンカ相手である、日本犬協会の指導者・高久兵四郎による斑模様の日本犬論をご紹介しましょう。

斑模様の和犬を肯定した上で、「もともと犬の祖先がブチ模様であった訳ではなく、犬が家畜化され、日本列島各地へ渡来・定着する過程において発生した毛色である」という解説内容です。

当時の中国大陸の犬には斑模様が少なかった、というのも興味深い話でした。

 

 

元來犬の毛色は、公平な立場から眺めて、能力實力を第一義とする人に取ては大した問題ではない。勿論毛色が其犬種に無いものである場合は別であるが、昔から有り來つたものなれば深く追及する必要は無い。

それにも拘らず最近、斑は駄目と云ふ事になつたそうな。

狆やトーイ・テリアの如く、珍奇な體型或は美しい毛色を生命とする犬種は、或は斑一つでも賣買價格に影響が有るかも知れないが、日本犬、特にその中型犬は、實用犬でなければならないので、重要點は智力と頑健な體軀とである。

此の理想的のものが充滿した暁は別であるが、今日の如く數最も尠なき中型犬の毛色を統一するため斑を排斥することは、益々優良な犬の撰擇の範圍を狭めるので甚だ遺憾千萬の事と思ふ。

 

斑犬は一枚色の犬より能力劣ると云ふ確證が有ればイザ知らず、單純なる外觀的觀察や、又は故渡瀬博士が斑は雑種から出たものと云ふ一般家畜の概論を曲解して、日本犬の斑を排斥するに至つた事は、角を矯めて牛を殺す愚擧と同一であると考へるのである。
今より十數年前は毛色の事を着物と云ふて居た。此れは眞に穿つた表現である。

人間が着物の好し惡しで評定さる可きものではない。寝衣を着た時はあの人間は下等と評せられ、同一人が美服を着た時は大人物と評せらる可きものでは無い。又着物を任意に取り替へる事が出來るので、犬の毛色の事を着物と呼んでゐるのである。

犬の改良で一番容易なのは毛色である。

それは勿論困難ではあれど、仔犬の毛色は配合の際種牡の選擇で他のものより比較的に樂なものである。

故渡瀬博士が云ふたブチは雑種から出たと云ふ説は、一般家畜に對する普通の場合を指して云ふたに過ぎないので、犬の斑は雑種から出たとはよも云はなかつたと思ふのである。

成程鶏では白色レグホンと黑色ミノルカを交配すると其雛は白と黑の中間である鼠色が生れ、又その雛からは白、黑及び斑が生れる。

此れは鼠や兎も同じか、又は鶏以上に判然と其仔に中間色の斑が出るものである。

 

然るに犬は大いに趣きが異つて居る。

誰れでも經驗の有る事と思ふが、白犬と黑犬の間に生れる仔犬は決して白黑の斑が生れるので無く、大概一方に片寄り白とか黑とかが生れ、斑は出ない。白と赤との間の仔も同じである。

犬の毛色の原色は、恐らく、赤かゴマであると推察される。野生當時は此れ以外の毛は保護色として不適當である爲め、往々突發的に他の色のものが生れても、自然淘汰されて仕舞ふ。

然るに家畜となつてからは、人間の保護が有る爲め、自然淘汰を免れて種々な色が出て來たのである。

原色であるゴマ、赤が追々色素を増して來た其積極が黑となり、反對に褪色して來た其消極が白となつたものである。

日本犬のブチは、他の家畜類の如く兩極色の交雑から出たものでは無く、白黑又はゴマ斑は黑が再び還元的褪色の過程中に生じ、赤白斑は白が還元的増色の過程中に生じたものでは無いか。前述の如く、黑白の仔には中間のブチは生れないが、黑とゴマ又は黑とリバーの中間には往々虎毛が生れるものである(リバーは日本犬には無いが)。

何れにしても日本犬の毛色が多種多様であるのは、原種が種々有つた爲めで無く、日本の氣候や地勢に變化が多い爲めであると考へるのである。

一部の人の説の如く、日本犬構成の原種が多數であつた爲めでも何んでもない。

 

動物が氣候や地勢に對して第一に變化するのは、羽毛とか毛色である。雪の多い北極に棲む鳥獸は白である。其中に移動する狐や鳥類は時節や移動地の状況で體色を替へる。稲の害蟲であるイナゴは、稲が青々として居る夏の間は青い體色をして居るが、秋に至りて稲が結實し葉が黄金色をして來ると、イナゴの體色も黄味を帶びて來る。

雲雀は砂原に棲むのと田圃のとで羽毛の斑が違つて居る。

玄人は一見してその區別を見出す。滿蒙に居る狼は平原のと森林のと又夏と冬では何れも毛色が異つて居る。

春夏秋冬と云ふ文字は支那から來たのであるが、支那全體を通じて見ると、我々が想像する様に順序よく四季は循環して居らない。南支は夏永く冬短く、春秋は僅かに夏と冬のツナギに一寸と來る位の程度である。

北支は冬永く夏短く、春秋は南支同様である。

 

此れに比べると、日本は春夏秋冬の變化に富み、地勢も亦山あり河あり平原森林と實に變化極まりない。斯の如き環境に於ては、家畜の羽毛色が多様になるのは進化の法則に據るので不思議は無いのである。

それは日本固有の家畜家禽に就て見ても判る。

牛馬は人爲の淘汰を受けるから、毛色も大した程では無いが、鶏猫の如く自由放任のものは何れも體毛は多數多様です。

外國の鶏は、レグホンと云へば大體白とか褐色であるし、ミノルカと云へば黑と決つて居るが、日本在來の地鶏は現在殆んど絶滅して仕舞つたが、尚ほ日本の鶏種と看做されるチヤボの如き白、黑は勿論ゴ石、カツラ、シヨウジヨウ、サザナミ、其他シヤモも同様で、金ザ、笹、白黑同じ黑でも油墨とかイヤ何墨とか、専門家に云はせると實に多いものである。

外國の鶏は混血改良のものが大いに不拘、其羽色に變化が尠く、日本固有鶏は純血が多いに不拘、羽色が多種多様である。

猫でも三毛、トラ、キジ、ブチ、黑、白等同様に變化が多い。犬も多分に漏れず變化の多いのは、一つに氣候地勢の關係と思はれるのである。

 

お隣の支那の如く、氣候も日本と反對に變化尠く、地勢も大陸で平原と言ふと一望千里、山と云ふと山ばかりの極で變化が尠い所では家畜類の體色も大した變化は無いものである。

揚子江以南の犬は大體體型も一定して、貴州雲南の犬はシエパード風の體型で毛色もゴマとか黑が多い。廣東の田舎方面は體軀の小振な赤が多い。

揚子江の北から萬里の長城の間は古來支邦文化發祥の地で、各地との交通も開けて居り、字引を見ても判るが、犬と云ふ字が種々有る所から見ると、各地の犬が集まつたらしいのである。

現在此地方に居る犬はそれ等の子孫である。

放任された結果、雑多な混血をなして來たので、其地方の犬の體型を聞かれても一寸と答へるに困る位である。そこには狆の雑種と思はれるのが有るかと思ふと、西蔵犬の雑種の様な大きなもの、或はコリー、或はシエパード、或はグレーハウンド等の雑種かと思はれるものがある。若し混血が毛色を多様にする第一の原因ならば、此等の犬の毛色は多數多様で、ブチも形の變た數〃のものが有りそうであるが、實は毛色には大した變化が無く、殊にブチは極めて尠いのである。

私は支那ではブチ犬は指を折る程しか見なかつた。支那の都會に隣接した郊外では、朝なぞは無數のルンペン犬が集つて居るのを見るが、ブチは殆んど無い。

 

此等の實例に徴しても、自然の儘にして置て多數多様の毛色の有るのは、氣候と地勢の變化が多い爲めであると云ふて差支へ無いのである。日本で一番毛色をやかましく言ふたのは獵師で、自分の方の山の中の連中(※当時の高久氏は足利市在住、後に日協本部のある関西へ転居)は獵犬は赤が一番であるといふ。

其理由は、野獸の目に付き難いから接近するのに都合がよいと云ふて居たものである。

其れなれば白なぞは野獸の目に觸れ易いから大禁物の筈であるが、紀州では山の中で獵師の目に附き易く、何處に犬が居るかゞよく判るから白がよいと云ふ。

結局毛色は解釋の仕方に過ぎない事となる。

自分は思ふに、恐らく、以前名犬が居て、其名犬が赤の場合は其毛色が多く希望され、白の時は白がよいと云はれたに過ぎないと推察して居る。ツマリ能力第一主義から、赤の名犬が居れば獵犬は赤に限るが如くなる。

白に名犬が居れば白に限るが如くされたのである。

 

斯の如く獵犬には赤とか白とかゞ多かつたが、町方は何でも強い犬が持てたので、弱い犬の仔は貰ひ手が無く、毛色は何んでもよかつたので、實に雑多でブチでも、ゴマ、赤、トラ、白、黑、四ツ目のブチ等が有り、人に聞かれても日本犬の昔のものは何毛が一番多かつたと連答は出來ない。シヤモを飼ふて、賭博で生活して居るものが田舎には多數有る。

私は常に感心して居るのは、競馬師とシヤモ師の目の肥へて居る事で、二、三羽のシヤモの蹴合で生活するだけで有りて、其研究は眞劔である。老練なシヤモ師の説は博士以上の名論である。斯の如き研究をして居るが、其目的はシヤモの實力以外には何も無いので、羽毛なぞは問題にしてゐない。

羽毛を問題にするのは同じ鶏でもチヤボを飼ふ人である。チヤボは愛玩的のものであるからだ。

斯く論じて見ると日本犬を實用的に見る人は毛色は深く追及せず、愛玩的に取扱ふ側に斑を氣にする人の多い傾向を肯かずには置けないのである。此れは日本犬の堕落を意味するもので、日本犬は徹頭徹尾一技一能主義を以て進まなければならん事を力説するものである。

 

日本犬協会・高久兵四郎『日本犬のブチ(昭和10年)』より

 

……最後に日本犬保存会を揶揄するのは忘れていませんねえ。カルタゴ滅ぶべし、的な。

当時の日本犬に猟犬としての能力を求める余裕はなく、とにかく消滅しかけた個体の数を増やすことが先決でした。その過程で日本犬の多様性が喪われ、代りに戦後まで生き延びることができたワケです。

日保の「繁殖による日本犬再興」と日協の「日本犬の能力追究」が相容れる筈もないのですが、両団体がもう少し仲良くしていたら、イロイロな成果も戦後へ残せたことでしょう。