・犬の欺された實例
昭和八年六月二十四日のこと。澁谷區代々木本町山口固氏邸に強盗が侵入したことがありました。同邸には英ポインター種の猟犬牝一頭が、仔犬五、六頭を哺乳して居り、外に土佐ブルの番犬で體格は大形の牡を一頭飼育して居ました。
ところが其の夜は二頭の番犬が一聲も吠えなかつたと言ふことでしたから、不思議に思つて調査した處、平常二頭共放し飼ひにしてあり、訓練も充分でなかつたから、犯人の爲にパンか肉類に「カルモチン」か或は「バルビタール」等の睡眠薬を混ぜて喰はされたものと見え、さすがに鋭敏な英ポインターも、又かの剛勇な土佐ブルも、一聲も吠えることが出來ず、中毒症状に陥つて數日間番犬の用を爲さなくなつてゐたのであります。
此強盗事件は當時新聞紙上にも報道せられた如く、主人の山口氏が賊と格闘してゐる物音に目を覺した長男の裕君(當時九歳)が、野球用のバツトを以て勇敢にも賊の後から乱打したので、幸ひ一物も得ず賊は逃走したのでした。
此の事件のあつた當時には、山口氏方の附近に居住する某代議士の飼犬も、同様の被害を受けて數日元氣を失つたとのことでありました。
其後昨年四月八日には世田ケ谷區深澤町四丁目神田釣一氏邸飼育のセントバーナード種牡一頭が、前日迄元氣で何等異常がなかつたのに、其朝突然斃死したので、其の死因に就いて鑑定の依頼がありましたから、屍體を獣醫課に引取り解剖に付して、胃の内容物を試験の結果、毒薬硝酸(ストリキニーネ)の中毒であることが判りました。
其日は神田氏邸附近の畜犬が數頭同様な被害を受けて急死したことも判りました。
斯様な譯で、之れは窃盗の目的に依る犯人の準備行爲であつたのか、或は犬に對する遺恨であつたのか、又は何人かの悪戯であつたか判りませんでしたが、毒薬などを使用した處を見ると単なる悪戯にしては念が入りすぎてゐると思ひます。
こんな事件は他にも畜主の氣のつかぬ間に澤山起つてゐる事と思はれますから、呉々も訓練して、放し飼ひは禁止する必要があります。
(続く)

 

警視廳衛生部獣醫課・犬の相談主任 荒木芳藏『近頃被害の多い畜犬の盗難豫防』より 昭和9年