飯野一雄氏による甲府シェパード界の紹介記事に対し、日本シェパード倶楽部理事一行は甲府を訪問しました。東京では、荒木貞夫陸軍大臣の画策による帝国軍用犬協会と日本シェパード犬倶楽部の合併交渉真っ只中。
よって、この甲府視察も日帰り強行軍となってしまいます(状況が把握できない地方支部会員には何が何やら、寝耳に水の合併騒動でしたが)。
 

レオ

相馬理事とレオ號

 

午前六時廿三分、未だ都會の騒音が鳴り静めて居る新宿を後に汽車は甲府へと向ふ。十九日にのマチネーも大成功裡に終つた爲か今日は浅田(甚右衛門)、相馬(安雄)両理事のお顔にも伸び〃とした氣楽さが窺はれる。

車窓から差し込む暖かい春の陽を受けて、一行の四人、盛會なりしマチネーの話、犬の話と時刻を移す間に幾つもの驛が次から次へと過ぎ去つて了ひ「えんざん!」と驛夫の呼ぶ聲に目を窓外に轉ずれば汽車は早や甲府平へ入つて、なだらかな傾斜を持つた丘陵が展開して居て、其處此處に葡萄畑が見受けられるのであつた。

「こんな丘陵で犬を運動させたら理想的でせうね」と浅田さんが云はれると、相馬さん「こんな絶好な場所で犬を充分に運動させる事が出來る。其の上御馳走をふんだんにやる事の出來る甲府の河野君は犬のブリードにも訓練にも大いに恵まれて居るわけだ。一度こういふ場所で、犬を飼つて、獨逸に逆輸出するやうな犬を造り出して見度いものですね」と大いに羨ましがられる。

 

鹽山を過ぎてから十分餘り、汽車が甲府驛に着くと眼鏡をかけた元氣な飯野氏のお顔が直に目につく。一同驛前の車を馳つて早速飯野氏の愛犬ピツコリヤと其の仔犬を拝見に出掛ける。ピコは相馬さんの一枚看板たりしレオ(※奉天獨立守備隊の藤村高曹長へ寄贈)の仔で其の訓練振りも親譲り。河野氏のシラーを除いては甲府一だと飯野氏が常々自慢される犬、其のピコが今回浅田さんのホーランドと交配してホーランドの面影を其のまゝ現はし居る仔犬四頭を産んで既に四十日を経過して居るとの事故、何を差し置いても第一番に見せて頂かねばならない所である。殊に浅田さんにとつてはホーランドが來てからの最初の仔犬でもあるので、仔犬産出の通知を受け取つた時から今日の甲府訪問を何よりも楽しみにして居られたのである。

 

飯野氏の御宅は街の中心を外れた閑静な所、陽を一杯にうけた廣いお庭の一隅にある犬舎の中に長々と寝て居た仔犬四頭は不意の侵入者に怪訝さうに頭をかしげながらヨチ〃と近寄つて來た。ピコは流石に御本家の方々の來訪と知つて矢鱈に愛嬌を振り撒く。レオそつくりの顔付き、然し體型に於ては數等上の彼女、東京にお嫁に來た時に較べると大分消耗して居るが、其の怜悧さうな眼ざしは成程訓練の出來た犬だなと頷かせられる。

仔犬をいぢつて居た相馬さんが突然「飯野さん、此の仔犬達は皆骨軟症の氣味ですよ。毛色と云ひ骨格と云ひ、ホーランドそつくりに出て居るのだから、今の間に直さないと折角の名犬も其の素質を充分に伸ばす事が出來ませんよ」

と忽ち突込まれると

「サーそれですよ、實に何とも申譯けのない事をしちやつて、皆様が甲府に御出になると知つて何と云つて御詫びしたらいゝかと思つて實は多いい弱り切つて居た所ですよ。何しろ初めての事ですし、一向勝手がわからずに、丁度運悪く、御来訪の節に最悪のコンデイシヨンの仔犬を御目にかけちやつて。弱つたなあ!」

と飯野氏しきりにしよげられる。

こうなつて來ると、甲府切つての愛犬家飯野氏もたぢたぢの態である。自分達のために主人が突込まれて居るのも知らずに四頭の仔犬達はすつかり一行に慣れ切つて足元にジヤレついて來る。グツトよく張り切つた胸、立派な顔立、両親の長所を受継いだ仔犬達は今後のコンデイシヨン如何によつては将來を約束するに足るもので、飯野氏のお楽しみも無理もない事である。

 

さうかうして居る間に、此れ又甲府の熱心なる愛犬家たる荻原氏も見えられて犬を中心とした話しにそれからそれへと話しはハズミ、思はずも豫定の時刻を過して了ひ、慌てゝ飯野氏の御宅を辞し、飯野、荻原両氏の案内で甲府の代表犬を見せて頂く爲車を馳らせる。

 

 日本シェパード倶楽部 小杉良和『甲府訪問記』より