先日、BLOGOSに掲載された永江一石さんの記事を読んでうんうんと肯いておりました。


「お金がないなら犬を買ってはいけない? はい、その通りです。高齢者が子犬飼うのも無責任がすぎる」

https://blogos.com/article/358630/

 

現代社会において、ペットを飼うには覚悟と設備と時間とカネが必要なんですよね。

100円の金魚を飼育するには100円の飼育費でよいのかというと、水槽や濾過器や水道代や餌代で総額何万円もかかるワケです。犬猫の飼育なんか尚更ですし、カメやオウムみたいな長寿生命体を飼うには次世代へバトンタッチする準備もしなければなりません(以前も書きましたが、私も少年時代にうっかり拾ったクサガメを飼い続けて今年で30年目になります)。

それがナアナアの無責任で済まされた時代があって、大規模なミドリガメの野生化や熱帯魚の泳ぐタマゾン川みたいな現状へ繋がっているワケです。

しかし、動物を愛する心は境遇や年収に関係ないのも事実。歴史上、極貧層にとっての犬は冬の寒さをしのぐ湯タンポにもなり、日々の喜捨を受けるための収入源であり(芸当犬とか)、辛い日々に安らぎを与えてくれる存在でもありました。

近代どころか、江戸時代からそのような人々はいたのです。

 

帝國ノ犬達-名呉町 

大坂の名呉町でペットと共に暮らす貧しい一家。暁鐘成『 義を守つて犬主の子を育む 』より 嘉永7年

 

「金持ち以外は犬を飼うな」という正論が、狂犬病対策と合わさって残酷な結果を招いた事例もあります。動物愛護団体や猟犬団体が連携して「犬の権利」を主張し始めた大正初期、その恩恵を受けられない人々もいました。

このような犠牲を強いながら、日本犬界は健全化していったのです(戦争によって振り出しに戻ったり、紆余曲折を経ていますけど)。

 

「近江國阪田郡には野犬約七十頭ありて、其多くは貧窮者が之を伴ひ行き、貰残りの食物を與へ、又は故ら食料を調へ與ふる爲め常に其附近を徘徊し居りしが、自らの口腹すら満す能はざる人民が犬を飼養する如きは経済上不利益なるのみならず斯る人民に依りて飼養されたるものは其性飼主なき野犬と異ならず、中には狂犬の質あるものも少なからざる模様なるより、受持増田巡査は今回他に放逐するか或は撲殺すべき様部民へ命じたる結果、廿頭は放逐し卅五頭は撲殺したるが、尚床下に潜み居るものあるより、竹内、木戸巡査の應援を得て各戸に臨検し、十三頭を發見せし爲め區長及改善委員並に青年會員等協力撲殺を断行せりと」

原田種道『犬の新聞!』より 大正2年