日本人は昔から焼鳥を愛好していました。江戸時代に焼かれていたのはスズメだったのですが、明治になってニワトリに交代しております。

屋台の焼鳥には出処の知れない安物も多く、「犬猫の肉を混ぜている」なんて噂もついて回りました。

 

 

横町を半町西へ行つた日吉町の角に、矢張りニ三年前名代の天麩羅屋があつた。屋號を天金を称して天金以上のものを喰はせた。

御かげで非常に繁昌して、とう〃角の地面を借り込み、立派な店を張るやうになつたが、店を張ると同時に客が落ちて、間もなく没落して仕舞つた。此から見ると、五郎兵衛町の天柳が今尚ほ屋臺店で満足して居るのは誠に見上げたものと云はねばならぬ。

日々新聞の横丁へ數年前から深川めしと芋汁の屋臺店が出て居る。銀座通否大通で芋汁をやつてるのは此處ばかりなので、可なり繁昌して居る。此頃暑さが烈しいので深川の方は暫時休んで芋汁専門となつて居る。一杯二銭で一寸食はせるが、只其の飯の麦ならざるが怨である。春先食はせるシヤコの塩茹は風味又格別で、此んな處へ出すのは惜しい位であるが、之には食い方に秘傳があつて、素人が手を出すと労多くして効少なし、辞を卑うして亭主に聞けば、亭主が手を取つて教へて呉れる。

 

赤い壁の亀屋の角には古くから一軒の軽便洋食がある。一品五銭乃至八銭で、一片噛むのに十分もかゝる様な肉を食はせて居たが、御客は常に満員である。夏分生ビールのコツプ賣りをもはじめた。

スルト此の反對の横町へ此頃又一軒の軽便洋食が出て來て、「シチウめし四銭」と云ふ看板を掲げたので、此方の亭主躍起となつて、前には一杯一銭づつ取つてたコーヒーを、當分景物としてまける事にしたら、向ふの洋食屋でも亦コーヒーの景物を断行し、昨今路を隔てゝ両々大競争の有様である。

 

時計屋の京屋の角に此の春中、シヤモめしと云ふのが出て居た。亭主は何でも芝居者か何かで、萬事小綺麗に取かたづけて一膳の價金三銭、他にナマコとかウニとかシヤコの爪とか云ふものを備へて價も比較的低廉であつたが、此頃迚もやり切れないと云つて閉店して仕舞つた。蓋し此邊の屋臺店で相手とする處は中以下のみで、此んなオツなものはテンデ見向いて呉れるものがないからであらう。

現に毎日新聞の角へ出る牛めしなぞ、汚い事此の上もなく、其の上値段も餘り安い方ではない。大丼一杯四銭、小丼一杯二銭、薩摩汁一杯二銭と云ふ書き出しであるが、之は又素的もない繁昌で兎もすれば御客が暖簾の外に突立て、先さま御代りを請求すると云ふ有様である。以て一般の嗜好を卜すべし。

 

鮨屋の數は銀座通りだけで二十四軒あるが、一つとして資生堂角の鮨に及ぶものはない。其中只一つ異彩を放つて居るのは、酒造保険の角にある西京鮨で、純然たる上方の押鮨を食はせて呉れる。風味侮りがたきものがあるけれども、之ばかりは商賣にならないと見えて傍ら東京流の鮨をを賣つて居る。然かし此の東京鮨の下手な事と云つては又御話にならない。うつかり手に取るとグニヤ〃と崩れて仕舞う。

 

京橋手前の焼鳥は、屋臺店の中へ列するだけの資格はないが、長年此處に割拠して人の目に慣れてるのと、又其の焼き立てる芳香が約一町の間に棚引いて、人の鼻をひこつかせるので、可なり有名である。然かし此は嗅ぐべきものであつて、食ふべきものではない。

一本の代價一厘五毛で、天下の公評によれば往々狗の肉や蛙の肉をも交ぜて焼くと云ふ事である。

焼鳥は何様しても大阪の事、千日前の溝の側で賣つてる五位鷺を食べた口では迚も東京の大道焼鳥は食べられたものではない。

中橋の大時計の手前に會てシチウ専門の屋臺店が出たが、間もなく姿を隠して仕舞つた。之は神戸流のシチウで我輩大いひに望を嘱して居つたものであるが、真に惜しい事をした。

 

銀座の住人「屋臺店雑観」より

 

日本における肉食文化は、明治時代に拡大します。

明治2年には角田米三郎が協救社を設立、穀物不作による飢饉対策として養豚をPR。続く明治4年には牛鍋が大流行したものの、まだ牛肉調達システムが構築されていませんでした。同時期から、犬肉を混入した「偽装牛肉」が問題化しています。

都市部や軍隊から帰郷した兵士や学生を介し、牛肉食が鉄道網に沿って地方・農村部にも広まったのが明治9年頃のこと。

 

明治20年には馬肉と鶏肉も流行し始めました。あわせて悪徳業者も暗躍し、3年後には京橋署が馬肉を混ぜていた牛肉業者を摘発、罰金1円50銭を科しています。同時期には「浅草の牛肉屋でも軍鶏肉を混入している」という噂も流れており、馬や鶏の扱いの低さが分かります。

明治24年、偽装牛肉阻止の為、警視庁が配達途中の牛肉抜き打ち検査を開始しました。それだけ酷い状況だったんですね。

これらの取締りにもかかわらず、「犬肉の焼鳥」は秘かに流通していたのでしょう。