近代日本畜犬史とは、全国47都道府県と南樺太、台湾、朝鮮半島、南洋諸島と満洲国とその周辺における、種々雑多な犬の記録を集めたものです。

「東京エリアの畜犬史」に過ぎないものを「これが日本の犬の歴史」とか主張されるたび、この人は日本地図を見た事が無いんだろうか?と他人事ながら心配になる訳です。畜犬行政史も警視廳ばかり取り上げていますけど、関西方面の方が先行していたんじゃないのとか。

で、その東京方面すら詳しい解説がないんですよね。当時の実情はどうだったのか、畜犬行政を管轄していた警視廳(戦後は保健所へ移管)の記録を取り上げましょう。


 

 

私が只今御紹介に預かりました柴内であります。本日は東京府畜犬商組合の創立總會といふお目出たい日でありまして、幹部の方から御招待を受けて皆さんにお目にかゝつたことは、私の最も欣快とする所であります。

私の講演の題目は「狂犬病豫防について」といふことになつてをりますが、餘り専門的なことを申上げるのも如何なものかと存じ、又時間も迫つてをりますので、極く簡単なお話を申上げてみたいと思ひます。

 

警視廳獣医課の仕事として、畜犬に関係を持ちますことは、まづ衛生方面で、即ち狂犬病豫防と、もう一つは犬の風紀の問題であります。犬の風紀問題といふのは、即ち野犬その他の犬が街頭で風紀を乱すといふことは洵に感心しませんので、斯かる事のない様にしたいといふのです。

その他の條項としては、警察犬に對する多大の関心、それから軍用犬に對する認識等を挙げることが出來ると思ひます。

 

そこで狂犬病豫防でありますが、近き過去に於きまして、狂犬が一番多かつたのは、大正十三年で七二六頭、同十四年は六百一頭、同十五年は三百八十五頭で、これを今日と比較して見ると、その頭數は随分多かつたのであります。

即ち最近では年に數頭に過ぎないのでありまして、洵に今昔の感に堪えないものがあります。全く帝都府民の保健衛生から申しましても、國際関係から申しましても、御同慶の至りに存する次第であります。これは一方に狂犬病豫防注射及びその施設が徹底的に行はれたことゝ、他方に犬界の第一線に立たれる皆様が、直接間接に御努力せられた賜物と考へる次第であります。

 

扨て、警視廳管下にはどの位の畜犬がゐるものかと申しまするに、大正四年頃から同十四年迄の統計に拠りますと、二萬五千頭内外であつたものが、同十五年に至り俄然四萬二千頭に増加しました。

と言ふのは同年八月農林省後援の下に、関東各府縣が一斉に狂犬病豫防週間を催し、之を機會に無届畜犬の大整理を行つた結果でありまして、爾來四萬七千頭に達して居るのでありますが、是は大正十五年に一時に犬そのものゝ實數が増えたのでなく、無届畜犬が正式に飼養届を出して、畜犬に成つた迄であります。

此の數字から推考しますと、市民の畜犬飼養能力には、自づと限界がある様に考へられるので、矢張り東京府管内に於ては、此の程度の頭數が限度の様に考へられます。

それから又従來と現在とでは、一般人の犬に對する趣味嗜好の向上、價値認識の変遷からして、種類に於て、格段の差が見えて参つたのも争へぬ事實でありまして、數の次に質の問題に移行するのは、當然の過程でありませうし、又今後とも益々種類の向上を見るでありませう。

 

昭和三年頃の事でしたが、軍用犬或は警察犬といふものを考へるにつけ、犬の質を改善することが一面に於て犬の價値を増し、一般の嗜好を満足させる所以であり、また他面に於て狂犬病豫防の目的を達する一つの方策でもあると考へ、之が實現が急務と信じ、先づ取締の局に當る警察官の認識を深めるが第一と私共防疫に従事する者が三人手分けして、各警察署を巡廻し、警察犬の設置の必要と種類の向上に附て、狂犬病豫防に結付けて縷々説いたのですが、残念ながら私共の力が足りなかつたせいか、大した反響を見ずに終つた様な次第でありました。

 

ところが既に皆さんも御承知の通り、最近警視廳でも警察犬の必要を認め、この四月から六頭の警察犬を置いて、これを刑事部で使用するやうになりましたことは、實に感激無量、私共としては年來の宿望達成した譯で、非常に嬉しいのであります。

又軍用犬に對しては「軍犬報國」などゝ云つて、軍部でも軍用犬に非常な期待を掛けてをります。帝國軍用犬協會のお話によりますと、軍用犬の登録は二萬頭とのことで、一朝有事の際は、少なくとも十萬頭なくては充分でないと云ふことを承りました。

 

で、従來の犬界の催物や、市民の嗜好を見まするに、どうも種類、體型にのみ偏するきらひが無かつたか、かういふ事柄は犬の審査には勿論大切なことではありますが、犬の持つ才能發揮、即ち訓練と云ふ方面には、あまり着目されなかつた。尠くとも閑却され勝ではあつた様に考へられるのであります。

それが近時にあつては、種類の向上と訓練といふ事にも重點が置かれるやうになり、訓練學校も随分所々に見受ける有様で、飼養者の趣味なり、飼養管理に非常な向上の跡を見せてをります。數千圓もする優秀犬の仔であるとか、才能ある犬を飼ふとかいふことが趣味になつて來たやうで、これは誠に結構なことであります。

 

警視廳では昨年十月を期しまして、管下の畜犬の種類を一斉に調査致しましたが、犬の種類は夥しいもので、五、六十種以上に上り、世界の犬の種類が網羅されてゐるやうであります。

グリフオンとかスピツツ、其の他珍犬に属する犬種も見受けられ、これは果して純粋のものであるかどうかは別として、さう云ふ珍らしい犬種を始めとして、雑多な犬種の博覧會の観を呈するのが現状であります。

私共は狂犬病豫防注射その他の用件で屡々管下畜犬の殆んど全部に亘つて、接するの機會を持ちますが、十年以前と異り、犬の良くなつてゐることは確かであり、畜犬家の趣味なり理解なりの著しい向上を認めぬ譯には参りません。之は皆さんが犬の普及に御努力なすつた結果であらうと思ふのであります。

 

當組合の設立に就きましては、私共としては、畜犬の統制をとる上に、民間の畜犬團體と官憲―警視廳獣医課でありますが―どの間に連絡をとることの必要を痛感してをりました。それで、幹部の方々にもお集りを願ひ、相談の結果この組合が設立されたものと思ひます。帝國軍用犬協會と云ひ、警察犬協會と云ひ、日本シエパード犬協會と云ひ、有力な畜犬團體の創立せられることは、将來益々犬界が隆盛に赴くことを裏書するもので、欣快に堪えぬ所であります。

どうか衛生方面にも當局の意を體して、御協力を惜まぬことを願ふと同時に、畜犬取締りに對して業者といふ立場から種々御註文もあらうと思はれますから、取締上差支へなく犬の普及が出來る意見がありましたならば、會員諸氏は幹部にまで意見を申出られ、幹部から當局に取次いで下されば結構と存じます。

 

犬の普及につきましては、何としても皆さんの活動に俟たねばなりませんし、又狂犬病豫防については満蒙を我が國の勢力範囲に入れた今日、これ又皆さんの力を少なからず必要とする實状にあります。

それは彼地には狂犬が澤山をり、過去に於きましても、日清、日露、シベリア出兵といふ彼地との交渉がある毎に、彼地から犬が這入り、その都度狂犬病が流行する有様で、かういふ點から考へてみますと、満蒙との交通が頻繁になると共に狂犬病が渡つて來る危険に瀕してゐるのであります。勿論税関での検疫が厳重で、狂犬病の這入つて來ることはあるまいとは思ふのですが、何分従來の例もあることですから、その邊も御注意願はれゝば結構と思ひます。

 

種々お話したいこともありますが、時間がないので、私の話はこれで終りと致します。最後に一言、組合が設立された以上は、協同一致斯界のために貢献せられんことを望むと共に、組合の隆盛を祈つて已まぬ次第であります。

 

警視廳獣医課技師 柴内保次

東京府畜犬商組合創立總會講演「狂犬病豫防に就て」より 昭和12年